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〈歴史エッセイ〉復元建物の見かたと「復元学」のすすめ(海野 聡)

海野 聡著『古建築を復元する』が第5回古代歴史文化賞 優秀作品賞を受賞!
エッセイは『本郷』129号(2017.5)より再録しました。

海野 聡

復元建物の見かたと「復元学」のすすめ
 
海野先生エッセイイラスト 
  
 窓にはライトアップされた平城宮第1次大極殿が堂々たる姿で闇夜に浮かんでいる。私の職場、奈良文化財研究所は平城宮にあり、私にとって復元建物は身近にある。こうした縁で、このたび「歴史文化ライブラリー」シリーズとして、拙著『古建築を復元する―過去と現在の架け橋―』(以下、本書という)を上梓することとなった。この復元建物について、少しお話をしたい。

 平城京はご存知のように、藤原京から和銅三年(七一〇)に遷都された古代の都で、奈良盆地の北方にあり、その宮殿である平城宮は東西約1㌔、南北約1㌔と広大な敷地を占める。現在、平城宮に古代から残る宮殿の建物は一つもなく、その痕跡も地下に埋もれており、ほとんどが原っぱである。そのため、晴れた日には、東は東大寺大仏殿から春日山、南は薬師寺の塔まで見通せ、まさに奈良時代を想い起こさせる光景である。逆に言うと、このくらいしか奈良の長い歴史を感じることはできないのである。

 私がこの平城宮跡を近鉄電車の車窓から見た時の第一印象は、まさに広大な空き地であった。その中に赤くそびえ立つ朱雀門を目にして、初めてここが歴史的な地であると認識した。私と復元建物の出会いは、ここから始まったと言っても過言ではない。

 その後も各地の遺跡を訪れては復元建物を目にし、何となく在りし日の姿のイメージはできたのであるが、それに対する違和感も覚えた。例えば、吉野ケ里遺跡では、未熟であろう加工道具や技術で、あれほど巨大でキッチリとした建物を建てることができたのであろうか、といった疑問である。さらには、どのようにして復元建物は復元・設計されているのであろうか、その姿は本当に当時のものと完全に一致するのだろうかと。こうした疑問も復元建物について学び、復元のプロセスを知るにつれて氷解したのだが、私が復元建物に向き合うスタンスの原点はここにあろう。

 現実として、遺跡の現地に建てられた復元建物には抗うことのできない強さがあり、見る人の歴史のイメージの作成を後押ししてくれるとともに、この強さは危険性をもはらんでいる。すなわち、復元建物があたかも、往時の建物そのものであるかのような錯覚に陥ってしまうのである。しかし、あくまで復元建物は現代の研究者らによる産物で、確度が高いとはいえ100%の復元ではないし、それは不可能である。むろん、我々研究者は、復元建物を可能な限り往時の姿に近づけるため、日々、汗と涙を流しているが、復元建物を見る方にはこれを知っておいていただきたい。それゆえ、本書では単なる事例の紹介ではなく、こうした復元のプロセスを取り上げている。このプロセスが復元を学問として捉える「復元学」であり、ここにこそ復元建物の裏側を見る醍醐味、玄人好みとも言える復元建物や遺跡の見かたがあるのである。

 さて、遺跡と聞くと発掘、そして、考古学者を思い浮かべる方がほとんどであろう。あるいは、木簡を扱う古代史学者であろうか。遺跡と復元の建物をつなぐのに彼らの力は不可欠ではあるが、ひとえに建築史学者の力によるところが大きい。この建築史学者の視点から、復元建物の面白さを紹介したい。

 まずは復元建物ができるまでのプロセスを簡単に話そう。第一に、発掘調査によって得られた発掘遺構や出土遺物の情報収集が必要である。発掘遺構は当時の建物の痕跡であるから、これを丹念に読み解いていくことが、復元への第一歩である。これらのピースを組み合わせて、復元というパズルを解いていく。ただし、このパズル、答えが一つではないのが難点なのであるが。

 もちろん、発掘遺構は古建築の痕跡で、古い建物を復元するのであるから、古建築の知識も不可欠である。詳細は本書を手に取っていただきたいが、穴一つとっても、柱を立てるための穴と、解体するときに柱を抜き取った穴、建設用の足場のための穴など、さまざまなものがある。また、柱配置から屋根の形状がわかることがあるし、屋根の軒先から雨が落ちるから、雨落ち溝と軒先の位置は一致してくる。こうした上部構造と発掘遺構の関係を一つひとつ、つなぐことで、復元建物に近づいていく。このように復元建物は、考古学・文献史学・建築史学など、多くの知識と研究のうえに成り立っているのである。

 私自身、復元された建物に対して、多かれ少なかれ学術的な疑問を持つこともあったが、深く見ていくと、なるほどと納得することも多い。そして現在は、奈良文化財研究所で平城宮第1次大極殿院などの復元に従事し、その辛苦を味わい、復元に至る理論構築の重厚さを実感している。同時に、パズルが解けた時は、学術的な喜びとともに、古代人に近づけたような感動を覚えている。

 この平城宮第1次大極殿院の話をすると、ここは東西約180㍍、南北320㍍の区画で、築地回廊で囲まれている。その南面の中央には南門が開き、両脇には楼閣があったことが発掘調査によりわかっている。特に困難を極めたのが楼閣の復元で、この建物は、これまでの日本建築史の常識の理解を超えたものであった。そのため、これまでも複数の復元案が考えられてきた。

 楼閣の発掘遺構は特殊で、内部を礎石、外周を掘立柱とする構造、いわばハイブリッド建築である。詳細は省くが、発掘遺構から最新の研究成果に基づいて上部構造を検討していくと、屋根形状は寄棟造であろうという結論に至ったのだが、寄棟造の楼閣というような建物は日本には現存しない。それゆえ、復元考察によって導かれた構造が、にわかには受け入れがたかったのである。

 その一方で、古代の絵画資料を見ていくと、二条大路出土木簡「楼閣山水図」には寄棟造の楼閣が描かれている。中国では、敦煌莫高窟や楡林窟の壁画には、寄棟造の楼閣が描かれ、懿徳太子墓など、墳墓壁画にも確認できる。ただし、これらの中国の壁画はくすんでいる部分も多く、写真では判別が難しい。そのため、二〇一二年には現地にて後世の加筆の有無など、間近で敦煌壁画を調査した。こうした研究こそ、復元から派生した果実であろう。

 このように現存する古代建築には寄棟造の楼閣は存在しないが、絵画資料からかつては存在した可能性が高いという建築史の新世界が広がった。裏を返せば、現存する古建築は、かつて存在した数多の建物のうち、歴史の偶然の産物として残ったごく一部のものにすぎない、という事実を我々に突き付けているのである。

 現在、平城宮跡資料館と復原事業情報館に第1次大極殿院の復元模型がそれぞれ展示されているが、両者は異なる形をしている。発掘と研究の進展により、復元建物の姿が変わってきたことを示す証人である。こうした復元の背景を知る機会は少ないだろうが、いつの日か第1次大極殿院が復元された暁には、その背後にある研究の積み重ねを知ることで、違った見方もできるだろう。

 このように復元建物が過去と現在をつなぐ架け橋となることを願ってやまないが、先日もそれをうかがわせる一幕を垣間見ることができた。冬の朝、平城宮の原っぱには霜が降りるのであるが、この白銀の世界の中で朱色に輝く大極殿や朱雀門越しに白い春日山が見え、これが往時を偲ばせる光景として親しまれている。こうした風景をカメラに収めようと、多くの人が早朝の平城宮で三脚をズラリと並べている。復元に携わる者のエゴかもしれないが、この一幕を見ると、復元された建物を通じて奈良時代の光景が現代の人々の目と心に届いたような気がしてならないのである。
(うんの さとし・日本建築史)


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