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『日本メディア史年表』刊行記念対談(2/3頁)

PR誌本郷第134号収録
『日本メディア史年表』刊行記念対談

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 戦争と大衆化

 成田 日本近現代史を学ぶ立場から、本年表を見て思うのは、メディア史にはいくつかの橋頭堡があり、その一つが戦争だということです。近代の戦争は、人びとを「国民化」していく出来事ですが、このときメディアが大きな働きをしており、メディア史の大きな焦点でしょう。
 いまひとつの橋頭保がイベントや事件、さきの国民化に対応した言い方をすると「大衆化」となります。これらがメディア史の二つの拠点になるでしょう。
 こうした目線で本年表を見ると、前者の戦争に関して、例えば西南戦争のところの記述など実に面白い。「一八七七年二月一五日、西南戦争開始」と記されたあと、三月からの新聞で戦争報道のさまざまな様相が記述されます。仮名垣魯文や福地桜痴といった新聞人の名前とともに、上野彦馬が従軍したことが記され、メディアの参加がうかがわれます。
 さらに松林伯圓や三遊亭圓朝らも西南戦争を論じることを考え合わせれば、新聞による戦争の報道にとどまらず、講談などの物語を通じての西南戦争があり、戦争に関する多様な語りに気が付きます。いや、正確に言い直すと、これまでは、物語の形式によって認知していった戦争を、魯文たちが新聞を通じ、言わば「事実」を報道しようとするようになる動きがうかがえます。

 土屋 「事実」についてですが、伝統的に言うと、江戸時代からの戦争の語られ方というのは実録ものに代表されるものですよね。いってみれば講談の語りで、それは事実なのかということはあまり問題ではなく、語られてきた。そして、私たちもまた同様に繰り返して語るという、そういう語りの芸で、聴衆と語り手がお互いに一緒の場をつくって盛り上げていくというものでした。しかも、講談本の多くは印刷されないで、手書き本で流通している。そういう意味では、一時代前の禁制の下でのメディアでした。
 それが今度は新聞という活字メディアになり、そして戦争も電信などのニュースを使って伝えられるようになり、「事実」と称したルポルタージュ的なものが語られていく。さらに、それがまた錦絵に描かれたりして本当らしく伝えられる。でも、本当かどうかは実はカッコ付きなので、語りと事実が混在して民衆に流布する様子が、とても面白い。

 成田 そうですね。だから、メディアが介在することによって、物語としての戦争を求める心性(マンタリテ)から、戦争の「事実」を求める心性に、人びとのなかでの変化がみられるということになるでしょう。

 土屋 そう。そして、そういうことを知ることが正しい、求めるべきだという方向に新聞も雑誌もなっていく。たとえば、西南戦争の前に、仮名垣魯文が江藤新平の佐賀の乱について、『佐賀電信録』を著しています。この本はそうした過渡期を示していて、とても興味深い。これを魯文が書いた理由は、新聞には事件の報道がパラパラと出されたが、電信による速報やや手紙による伝聞などが入り交じり、伝達による時間差もあって、話が前後したり、断片的だったりして、普通の読者には何がどうなっているのか、事件の流れがわからなかった。そこで、それをわかりやすく時系列に整理した話にまとめて挿し絵も入れたのが、この『佐賀電信録』で一八七四年に出ています。当時魯文は戯作者から『横浜毎日新聞』の記者に転身してまもなくの頃で、「神奈垣魯文」の筆名を用いています。これが実録ものによる戦争の語りから報道の記事による戦争の語りへの移行の始まりでしょう。   
 新聞の記事を、実録ではないのだけれども、新しい物語、新しいスタイルの戦争を語る話にしてみようと彼は試みた。それが戦争を人びとにどういう形で伝えるかという、近代的な新形式の最初だったと思います。
 明治の初めは、新聞や雑誌でいま私たちが読んでいるようなニュースというものを受け入れる素地がなかった。ではニュースをどうやって語って伝えるか、そこにはある種芸能的な手探りがあったのではないかと思います。そういう面がこの年表から読み取れるといいと思います。

成田龍一先生 成田 はい。そして、それは一人、魯文の話というよりも、魯文があらたな語りをおこなうことにより、潜在的に人びとが持っていた関心の変化を促し、方向づけをしていくということですね。

 土屋 そうですね。戦争が大衆化と国民化の一つの大きなメディアの拠点だというのは、確かにそのとおりだと思うのです。ただ、大衆化や国民化そのものを年表に書き留めるというのはなかなか難しい。歴史学の議論としては、それは実際に十分論じられてきていますし、重要な論点だと思うのですが、これは年表の中ではなかなか難しい。つまり、国民化とか大衆化という過程が、見えるとすればどうやって見せるか、どうやって記述するかということが大問題です。
 その点では、戦争というのはメディア史から見てもテクノロジーの変化だと私は思っているのです。例えばオリンピックがテレビ技術の発展のときに一段階上がる一つのステップだと言われていますが、戦争もそういう部分がある。電信や写真はその代表として挙げられますが、そういうものがステップアップして新しい技術が投入されるのはだいたい戦争のときですね。
 それまでは試してみるだけだった技術を、戦争になって実際に使うということが行われてきた。飛行機などのテクノロジーもそうですが、私はむしろそういう側面の方が年表では追いやすいのかなと思っています。その辺はいかかでしょうか。

 メディア史の方法

 成田 戦争によるテクノロジーの発達は、コンピューターはその典型ですし、さらに現在のインターネットも戦争の中で開発されており、ご指摘のとおりだと思います。そして、「国民化」や「大衆化」の過程も、年表によって筋道が浮き上がってくることもその通りだと思います。
 メデイア史といったとき、戦争のような非日常的な事態と出来事とともに、日常に根差す出来事をあわせて扱いますが、戦争もその過程においては日常化し、事件やイベントもその瞬間には非日常の出来事となります。そして、「国民化」「大衆化」は、これらの双方が複雑に絡み合っての動きとなるでしょう。
 たとえば、「大衆化」といったとき、一九二〇年代に多様な動きが一挙に出てきます。広告がその典型ですが、新聞や雑誌の広告欄にとどまらず、ビラやポスターとしても出され、大量の広告がメディアとしての機能を果たします。横断的に広告が登場することが、年表での記述からうかがえます。
 このとき、これらの出来事の出来の意味への問いが誘発され、その問いが「大衆化」という仮説を促すという流れが続くはずです。そういう機能をこの年表は持っていると思いますし、そういう問いの誘発を想念しながら、項目選定がなされたと推察します。

 土屋 この年表は分野別にそれぞれ分担して作成されました。放送関係は立教大学の井川充雄先生、通信関係は大妻女子大学の里見脩先生、映画関係が早稲田大学の谷川建司先生、広告関係は関西学院大学の難波功士先生、慶應大学の山腰修三先生に最新のコンピューターなどのテクノロジー関係、立教大学の吉田則昭先生には雑誌・出版関係、写真関係を石井仁志さんというふうな形で執筆して頂きました。
 そのときに、どのように項目を取るのかという話が、当然議論になりました。そこでどうしようかと考えたのですが、一律の定義をするのはとても難しいので、とにかく各分野で、これはどうしても採録しておかなければいけないと判断したものは採録してくださいとお願いしました。

 成田 メディアに関し、今までの歴史学では、エピソードの集積のように扱ってきました。それをエピソードではなく、歴史を考えるうえでの重要な柱にしようとする試みの流れのなかに本書の営みがあるでしょう。土屋さんの議論に関わって、二つのことを想起します。一つは、メディア史の研究史に関わる論点、もう一つはメディア史が歴史を考えていくうえでの方法的な提起であるということです。
 まず、前者ですが、メディア史の研究史を考えるとき、新聞の歴史、放送の歴史、通信の歴史、映画の歴史と、つまり、現在私たちが知覚しているメディア―しかもマス・メディアの起源を遡っていく形で研究史が提供されていました。たとえば、新聞は一九三〇年代にその歴史が語られ、新聞史研究が開始されます。出版研究も同様に、出版が重要だと認識された時期―ひとつの画期としての一九五〇年代ころから、出版史が提供されます。これに社史が加わりますから、メディアごとの歴史の集成としてメディア史が提供されていました。
 ある時期にそのメディアの正統性、メディアのアイデンティティを確かめるために、ジャンルごとにつくられていた歴史が、その出発点に位置していたということです。
 これに対し、本年表は、そうしたアイデンティティとしてのメディア史を、二〇一七年の視座において、シャッフルし直すという作業がなされているだろうと思います。
 すなわち、新聞というものを自明のものにしたメディアの歴史を探るのではなく、また放送に関しても起源をさかのぼるという発想ではない。そうではなく、現在、新聞がどのようなメディアとして考えられるがゆえに重要であるのか、その項目を歴史のなかから掬い上げるという営みですね。放送が現在どのような位置にあるのか、そのことが考えられるような事跡の探究ということで項目を拾うということ。すなわち、メディア史の研究史を踏まえた上で、現時点でもう一度それを考え直そうという方針だろうと推察します。

 土屋 それはたぶん編集に関わった皆さんが共通して持っていたものだと思います。なぜかというと、現在のメディアの状況がそういう思考を促しているからです。今は「じゃあ、新聞って何?」「新聞は紙に印刷されているもの?」というクエスチョンが実際に付いているわけですよね。
 そうなると電子版というものは新聞ではないのか。では、新聞社とは何か。こういう問いが現実にあり、それは研究者の皆さんが共通に意識しているところで、具体的には説明していませんが、恐らく共通認識としてあった。そういうことを振り返る意味もあり、年表の中では、新聞は新聞のアイデンティティを確認するというようなものではなく、もう一回、現在のメディアを考え直すための年表という意味が非常に大きかったと思います。
 新聞史研究のそもそもから言えば、一九二〇年代に企業として発展した新聞社が、それまでの新聞の歴史を振り返るというところから始まっています。一九二二年(大正十一)に小野秀雄が著した『日本新聞発達史』は、朝日新聞社に対抗して大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が合併してから十周年の時に、同新聞社から発行されている。また、同新聞社から一九二六年(大正十五)に刊行された『十大先覚記者伝』は、初期の新聞のジャーナリストたちを検証するということを、新聞事業の先達を追悼する行事の一環として始めました。
 この二つの著書の間に関東大震災があり、古い新聞雑誌や資料が失われたため、宮武外骨や明治文化研究会の人々が収集や記録を始め、そこから出版史なども振り返られることになる。その延長上に一九三〇年から刊行された『綜合ヂャーナリズム講座』が成立した。これが戦前におけるメディア史研究の始まりと言っていいと思います。
 そこで、戦後の研究がどこから始まったのかという問題が実はあるわけです。戦前の研究がどう引き継がれたのかについては私もよく確認していませんが、戦後は「マスコミュニケーション研究」というものが出てきます。つまり、南博をはじめとする社会心理学が入ってきて、その中でいわゆる文化研究として日本の新聞・雑誌、メディアというものを取り上げるようになった。
 それも活字メディアだけを取り上げるのではなく、その周辺のいろいろな語り、ビラ、替え歌みたいなものも含め、社会心理を研究するという中に、現在言われるメディア史研究の萌芽が包まれていて、実際に私が学んだメディア史研究の先駆者である山本武利先生、有山輝雄先生、竹山昭子先生などの世代は、全部南博の影響を受けていると言えるかと思います。
 ですから、新聞社が自らの歴史を検証する一方で、米国を起源とする社会心理学の研究がメディアの研究を見直す契機となり、特に社会心理、日本人の社会的な心理を誰が、どういうふうにつくってきたのかという興味がメディアに向いたということがあると思います。

次頁へ続く

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