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『日本メディア史年表』刊行記念対談(3/3頁)

PR誌本郷第134号収録
『日本メディア史年表』刊行記念対談
 

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 成田 小野秀雄が新聞史の研究を開始されたのは、ちょうど新聞自体が大きな転換をする時期ですね。各地域にあった小さな新聞社が、大きな資本に統合され、大資本による全国紙が登場してくるという転換期。このとき『日本新聞発達史』という大著を書きますが、新聞をめぐる状況の変化に対する、小野なりの敏感な対応でしょう。
 メディア史は、そうしたマテリアルなジャンル、テクノロジーによる新メディアの誕生、それらを実践する企業を念頭に置きながら考えられてきます。これは、戦前にその原形を持っているといえます。
 戦後は、ご指摘のように、新たにマスコミュニケーション論として、南博たちの社会心理学が重要な役割を果たしています。コミュニケーション論として、メディアというものを媒介にしながら人と人、あるいは人と社会の関係が、どのように再編成され、変化していくかという研究でした。
 南たちの議論は大きな影響力をもち、歴史的な分析として、私などにとっても『大正文化』(一九六五年)は必読本でした。マテリアルというよりは、むしろファッション、流行や、うわさなど、言ってみれば目に見えにくいもの、あるいは移ろいゆくものへの関心が強くうかがわれました。また、大きな動向を押さえながら個人の趣向に入り込み、意識的なものとともに無意識の領域をも扱おうとするように感じました。メディアの領域と役割を一挙に広げていくような仕事だったと思います。
 しかし、南たちの仕事は、当初、どのような形で受け取られていたかというと、世相史・流行史・風俗史としてでした。講座日本風俗史編集部編『講座 日本風俗史』(雄山閣出版)という講座のなかで、第一一巻「昭和時代の風俗」(一九五九年)が「昭和」の風俗を扱うのですが、南博さんが編者となり、巻頭に「昭和時代の風俗」を執筆しています。新聞や雑誌などを、マテリアルの局面ではなく、その効果とでもいうべき側面から扱い、なかなか可視化できなかった領域を可視化し、メディア史に接続したということができるように思います。

 土屋 そういう言い方もできると思います。あともう一つ、現代のメディア史という考え方をするときに私自身が影響を受けているのは社会史です。アナール学派に直接影響を受けたというよりは、それに影響を受けた日本の歴史家たち、例えば良知力とか、阿部謹也とか、安丸良夫の民衆史とか、民衆がどのように歴史に参与し、歴史をつくってきたかという観点の歴史的な叙述というものが、もう一つあると思っています。
 従来の歴史学だと、まずは王朝の歴史、つまり、権力者の歴史、その正統史を叙述するというのが大目的でしょう。しかし、そういうものだけが歴史学なのかというと、これに対するアンチテーゼという意味合いが民衆史とか社会史にはあった。

 成田 さきの第二の論点にかかわりますが、歴史学の転換とメディア史との関係は、興味深い主題ですね。歴史学が私的領域へと対象を拡大するときに、文学研究とともにメディア史の影響も大きかった、とあらためて思います。メディア史からは、同時に認識面でも刺激を受けているでしょう。たとえば、世論をめぐり、あらかじめ人びとの意見があるのではなく、メディアによってつくられるとの議論。しかし、対抗的に、調査をすれば人びとの意思や方向はわかるという議論があります。実在/解釈をめぐる議論は、歴史学でも焦点となりつつあります。ようやく、ですが(笑)。
 さらに、佐藤卓巳さんが提起する、「世論」と「輿論」―ポピュラーセンチメンツとパブリックオピニオンとを分節し考察する議論もまた示唆的です。歴史学における、集合的記憶の重要性の喚起とも接点を有する議論となっています。

 土屋 メディア史は、結局、今までの歴史研究とか社会心理学、社会史でもいいのですが、そこではちょっと飽き足らないという人たちがやっているように思います。具体的に言うと、日本近代史研究出身の人と、私のように社会学とか社会心理学の分野の人と、あとはマテリアルなもの、つまり雑誌とか新聞とかの古い物が好きでコレクションをしている人と、三系統ぐらいある。この寄合がなかなか面白いわけです。
 つまり、純粋にアカデミックかというと、そうでもない。歴史系の人、社会学系の人はそれぞれ学問的エリアがあるのですが、コレクターの系列の人は全く個人的な関心で面白いからいろいろな現物を集めている。たとえば、日本新聞博物館に寄贈された、明治以降の新聞雑誌の膨大なコレクションである羽島知之コレクションや、戦中及び占領期の雑誌を集めた福島鋳郎コレクションは、何かの学問とは関係なく個人の思い入れで集められたものですが、そういう人たちの持っている史料が私たちにとってはたいへん役に立っているわけです。民間史家というか、そういう部分をくみ上げているところがメディア史の研究にはあると思います。

 成田 メディア史研究にはアカデミズムと民間・在野の両方の人がおり、実際にそうした共同作業がなされているということですね。マスメディアの現場の人も加えるとメデイア史にかかわる方々の多面的な構成がうかがえます。資史料に関わって、その構成が有効に働いていることは興味深いことです。
 このことは、いくらか飛躍しながらいうと、一見対抗的なものがともに扱われている、ということです。先にも話題としましたが、メディア史は「公」と「私」、「日常」と「非日常」の双方を対象とし、双方を分析する視点をもちます。対立的なものをともに扱い、組み込んでおり、これがメディア史の領域となっていると思います。今までやってきた事柄であるでしょうし、この年表からも、そうした事柄が多々うかがえます。
 これは、歴史学が志向することと重なっています。今までの歴史学が公的な政治を扱い、その反省から民衆の日常に着目するようになったのですが、振り子を片方に振り切ってしまったときには、どうにも不十分です。このように考えると、メディア史は、歴史学のいま考えている課題を、より明示的に実践しているとさえいえるでしょう。

 土屋 そう言ってもらえるとこそばゆい感じになります(笑)。

 成田 いくらか、隣りの芝生の青さの強調になっているでしょうか(笑)。ただ、方法としてのメディア史の可能性、そして、その守備範囲がこの年表からうかがえます。

 本書の特徴

 土屋 たいへんお褒めにあずかったような気がしていますが、何かご要望とか、ここは疑問に思うというところがあれば、ぜひお聞きしたいと思います。

 成田 歴史学の課題との重なりという観点からすると、例えばペリーの記述など、連想を誘います。一八五三年にペリーがやってきたことで日本の近代が始まったということが通説になっています。その出来事を、この年表でどう記しているかと言うと、ペリーが二度目に日本にやってきたとき(一八五四年)、「各寄港地の琉球、下田、横浜、函館などをダゲレオタイプで撮影した」とある。これなどはハッと思わせる記述です。
 なにを意図して、ペリーが写真撮影をおこなったか、と想像力が広がります。幕府と折衝をするという「公」の任務をもつペリーの行為は、当然、記録写真となりますが、何を写しただろうか。ペリーの持つ役割とその関心。そこへ私たちの想像力を膨らませていく記述になっています。
 あるいは、敗戦の日の記述も同様です。一九四五年八月一五日に玉音放送があり、アナウンサーによる解説などが続き、鈴木貫太郎・首相がその後、戦争終結の告知をします。年表にはさらに、「一週間の全国の映画興行停止」という一行が付け加えられている。人びとがニュース映画によって情報を視覚化し具体化していたことを考え合わせれば、大きな出来事です。また、数少ない娯楽も停止されてしまったことが、記されています。
 玉音放送のもたらした効果は、議論がなされています。新聞の配達を玉音放送後になるように遅らせ、敗戦を活字ではなく、声で知らせ、身体的なもの、オーラルなものを重視した大日本帝国の作為が指摘されています。となると、ラジオとともに、さんざんに利用されてきた映画を利用することも考えたでしょう。その映画に関し、「申し合わせで」映画興行が停止されたと記されたことが目を引きました。

 土屋 ただ、今のところに関して言うと、新しいフィルムが間に合わなかったのではないかと思います。つまり、戦争が終わったけれども、興行のフィルムは「これから頑張りましょう」という、戦争を推奨する映画だったと思うんですよ。土屋礼子先生

 成田 はい。たしかに、劇映画はそうでしょう。簡単には、敗戦後の事態にもとづいた映画を提供することはできません。しかし、今で言うニュース映画は、可能でしょう。映画館が興行を停止するということは、ニュース映画も流れないということですね。

 土屋 そうです。

 成田 ニュース映画は、重要なプロパガンダです。継続して支配を行っている大日本帝国が、それを利用しないという手はないと思うのですね。しかし、その手は使わない。むろん土屋さんがいわれるように、物理的な制約が大きいでしょうが、ある意図も働いていたような……。

 土屋 空白になってしまったわけですよね。

 SNS時代を生きる私たち

 ――ここで、現在の問題にふれます。本書には付録の表(戦後の媒体別広告費の推移)が付いています。これを見ていくとそれぞれのメディアの影響力が見えてくると思うのです。一九六〇~七〇年にテレビが勃興してくる時代は、メディアが新聞からテレビに取って代わられるのですが、二〇〇七年に雑誌の広告費をインターネットが抜きます。
 そこを考えていくと、現在私たちが目の前にしているSNSの発達というのは、今までのメディアの発展と比べてどれくらい大きい変革と考えていいのでしょうか。

 成田 先ほど新しいテクノロジーの登場のもたらす衝撃を強調しましたが、ただそれが出た瞬間に、今までの関係性―コミュニケーションのやり方が変わり、変化が一挙に進むかというと、そうではないですね。新しいテクノロジーを旧来の心性と作法でだんだんと馴致し、新しいメディアとメディア環境に慣れていくのでしょう。移行の期間があると思います。

 土屋 社会としてはそうですよね。

 成田 個人の次元では多様ですけれどね。つまり、SNSは、誰もが発信をして、それをみんなが一挙に共有するといいますが、改めて考えると、従来もそうしたことはありました。自分の意見を提出し、共有したいという人は沢山いました。たとえば、新聞に投書し、雑誌に投稿し社会に伝達することは広範に行われてきた。
 しかし、それが新しいテクノロジーのもと、厖大に広がっていったというのがSNSということでしょう。なるほど、量的な拡大は以前とは比較になりません。また、伝達の仕方も多様に、複雑になっています。しかし、根底にある自らの発信の欲求を出発点とした作法は、一挙に新しくなったのではないと思います。
 また、SNSなどで、情報が不特定多数に共有され社会化される局面はあらたな事態のように見えます。今まで見知っていた範囲で共有されていた情報が、文脈を離れて、まったく異なった社会に投げ出され、これまでとは違った文脈で受けとめられ解釈されるようになります。文脈の共有、共通の文脈を持たずに切りはなされ、情報が独り歩きします。
 しかし、こうした事態も、近代当初の活字がもたらしたことがらではありました。オーラルなものが活字になるとき、遠く離れた場所で、違った文脈のもとで人がそれに接していきました。メディアの推移の経験は、インターネットやSNSに対しても有効でしょう。

 土屋 これからはどうやってパブリック(公共性)を形成するか、これがメディアによって変容する部分が、非常に大きいのではないかと思います。新聞や雑誌がつくってきたパブリックのつくり方とSNSがつくっていくパブリックのつくり方は、やはり少し違う。影響のスピードも違うし、範囲も違う。SNSも結局階層化している部分がありますし。
 だから、そういうことがどんどん明らかになっていくと、出版や放送とは違うけれども、似たようなパブリックのつくり方が出てくるのではないかと私は思っています。

 成田 ただ、プライベートなものとパブリックなもの、つまり公共圏と親密圏の生成と関係性、その持つ位相の測定などは、メディア史研究の重要な課題でした。その課題が、あらためてSNSやインターネットなどの新しいテクノロジー、ニューメディアによって突きつけられているということでしょう。新たなメディアが登場することによって、今までの議論が帳消しになるのではなく、むしろこれまでの議論が試されてきているということだろうと思います。

 土屋 実際にフェイスブックに対する規制が各国で議論されていますが、年表にあるような過去における個々のメディアの議論が、新しい未来を考える上でも参照項になるでしょう。

 ――本日はありがとうございました。

(2017年12月19日)

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