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PR誌本郷第134号収録
『日本メディア史年表』刊行記念対談

メディア史の切り拓くもの

土屋礼子先生 成田龍一先生
土屋礼子 つちや れいこ
1958年、長野県に生まれ。一橋大学大学院博士課程修了、博士(社会学)
現在 早稲田大学政治経済学術院教授
主要編著書=『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』、『近代日本メディア人物誌:ジャーナリスト編』など多数
成田龍一 なりた りゅういち
1951年、大阪府生まれ。早稲田大学大学院文学研究科(日本史専攻)博士課程修了、文学博士
現在 日本女子大学人間社会学部教授
主要著書=『「故郷」という物語(ニューヒストリー近代日本2)』、『「戦後」はいかに語られるか』など多数

 

 本書のなりたち

 ――本日は、『日本メディア史年表』の刊行(昨年一二月)を機に、成田龍一先生と編者の土屋礼子先生にご出席いただきました。まずは本書のなりたちについて、お話しいただきたいと思います。

 土屋 最初に、この『日本メディア史年表』というものをつくりましょうという話をいただいたときに、どういうふうに考えるかということでしたが、放送史・新聞史など、各個別のメディアの歴史というものは書かれてきていますし、年表の形でまとめられているものもある。しかし、それを横断した形でのメディア史というものはあまりないのではないかという話になって、編集にとりかかりました。
 それはマスメディア、つまりテレビとか新聞だけではなく、郵便、通信、あるいは電話、ビラ、看板、レコードといったマイナーなメディアも含め、さらには最近のパソコン、テレビゲーム、SNSなどまでも含んだ、すべて人間の生活に関わるようなメディアのあり方が考えられるような年表がつくれたら面白いだろうなと思って、始めてみたということです。

 成田 なるほど。この年表は「史上初めてのもの」と土屋さんは言われています。そのことを示すように、近現代の全体を対象時期とし、取り上げるテーマ設定も非常に多岐にわたっていますね。

 土屋 どこから始めるかということも大きな問題だったのですが、最終的には一八三七年から二〇一五年ということで、一八〇年間という膨大な長さになりました。
 まず、始めるに当たっては、メディア史というのは近代史と重なっていると同時に、近代を導いてきた部分がメディアにもあるので、いきなり明治維新ではなく、その前から始めるべきだろうと考えました。特に私は新聞の研究をやっていることもあって、阿片戦争の前後ぐらいから、西欧諸国が新しい活版印刷技術をアジアに持ってきて新聞・雑誌をつくったという、その辺りから始めないといけないと思いました。
 そこにもう一つのテーマがあるのです。本の題名は『日本メディア史年表』となっていますが、日本を中心とした、なるべくアジアの広がりを展望できる年表をつくりたいと思ったのです。中身を読んでいただくと、九割以上日本のメディアの話なので、「日本メディア史年表」ということで実体はそのとおりなのですが、気持ちとしては、例えば、日本人が海外に出ていった地域とか、日本に輸入されてきたメディアとか、日本に影響を与えた、あるいはかつての大日本帝国が植民地や占領地として影響を与えた部分、その中で、メディアでつながっている部分もなるべく入れようという趣旨で編集を試みました。

 成田 私は、大学で社会学を学ぶ学生たちに接していますが、メディアは学生たちにとって非常に人気のあるテーマのひとつです。しかし、メディアと言ったとき、新聞、雑誌はもちろんのこと、放送、郵便、通信、ビラまで目を配るといわれましたが、なにをメディアとして扱うかによって、内容が変わってくる――いってみれば、領域が方法を規定するところがありますね。そして、その方法がさらに、領域の設定によって動いていきます。そうしたなか、メディアに関わる歴史的な事項を集めていこうというのは、重要かつ壮大な試みだと思います。
 「近代」と「日本」という二つの焦点を持ちながらこの年表をつくられたといわれましたが、モールスが電信機を発明した一八三七年が最初の記述事項となっています。空間を超える通信を重視し、入り口にしてのメディアの把握で、通信が近代を切り開き、日本という領域を作り上げるという認識がうかがえます。一八三七年は同時に、ダゲレオ式の写真が発明された年でもありますね。

 土屋 そうですね。

 成田 写真は、時間と空間を超えていくメディアですが、通信とともに一九世紀の中葉に出現したことは、「近代」のメディアの性格をよく示していると思います。

 テクノロジーの進化

 土屋 いま通信と写真の話が出ましたが、メディアの範囲がどこまでかというのが一つの大きな問題でした。つまり私たちがメディアだと考えているものをなぜ「メディア」という範囲で括って呼ぶかということ。それはいろいろなマスメディアの総称であるとも言えるのですが、私は人間のコミュニケーションとテクノロジーが交差する部分がメディア史研究の対象だと思っています。
 テクノロジー、すなわち技術がどの範囲を指し示すのかというのも議論になる部分ですが、コミュニケーション史の中では、ラスコーの壁画とか、文字の発明とか、何千何万年前のところまで遡るという教科書がよくあります。私はそういう考え方もあるとは思いますが、どちらかというと現代社会の直接の起源はもう少し最近の電気テクノロジー、+あるいは科学的なテクノロジーであり、それが産業化につながるテクノロジーの部分に焦点を当てるべきだろうというのが、私の根本的な考え方で、そこがメディア史の独特な領域だろうと思います。
 この近現代の約二〇〇年の間にテクノロジーがどんどん進化して、それによって人間社会の結合やグループのあり方が変わる。コミュニケーションのあり方と組織の仕方が変わってくる。そういうところが注目すべきところであるし、固有の領域ではないかと思っています。

 成田 まったく同感です。コミュニケーション論一般ではなく、メディア史と言ったときに、テクノロジーの問題を無視することはできないですね。テクノロジーを踏まえ、どのようなコミュニケーションが拓かれ、可能になったのかということを考えていくことが、メディア史を論じるときの立ち位置であるだろうと思います。
 そのときに重要なのは、テクノロジーが、今までの思考や記憶の作法、さらには世界観、人間観を変えていくということでしょう。つまり、人間と人間の関係をテクノロジー、技術が変えていく面があるということ。
 二つ目は、そうであるがゆえに、新しいテクノロジーの出現によって、あっという間に前のテクノロジーによって培われていた思考や考え方、観点のあり方が変わってしまう、いや、忘れ去られてしまうということがあると思います。例えば携帯電話一つをとってみても、携帯電話が出てきて、それが当たり前になると、それ以前にどういうやり方で電話していたであろうか、また、そもそも人に連絡をするときに、いかなる方法を取っていただろうかということが忘れられてしまう。
 そのような、いってみれば「上書き」の作用が、テクノロジーを踏まえたときに議論になってきます。となると、メディア史が持っている役割と位置と方向は、かなり重要なものとなってきます。

 土屋 いま方法の話が出たのですが、方法はすごく難しい。方法はまだ開発中だと私は思っています。

 成田 メディア史の方法の困難さ、ということですね。

 土屋 メディア史研究の方法ですね。まだ手探りでやっている。この『メディア史年表』というのはその材料であるとも思っています。つまり、メディア史全般の、テレビにも、新聞にも、SNSにも共通する方法がどれだけあるかというと、それは恐らくコミュニケーション論が論じてきた一般的な理論などを大きく飛び越えるものは、とりあえず今のところはないのではないかと私は思っています。
 方法はそれぞれ個別の分野で考えていくところからしか出てこないのではないかと思っていますが、一方で、前時代のテクノロジーが持っていたある種の組織的な力とか、コミュニケーションに関わる思考、思想を含んだある種の文化、それが陳腐化して、そして忘れ去られるという過程と、新しいものが興隆し、広まって産業化する、その過程をどうやって一般化して考え得るか、あるいは理論化できるか。そして、それを方法として分析し得るか。それはまだ確立されていないのではないかと私は思っています。

 成田 土屋さんがいわれたことは、別の言い方をすると、メディア論とメディア史の関係に関わってくると思います。冒頭に申しましたが、何をメディアと考えるかによってメディア論の内容が変わってくるなか、メディア史も定義によって、当然その姿を変えてきます。
 大きな時間的な流れで言うと、本年表は写真と通信を入り口にしていますが、一般的にはここに新聞、雑誌が加わり、さらにマスメディアとしてのラジオ、テレビが登場するという把握が一般的です。そして、その流れは、絶えずテクノロジーとセットになっています。
 しかし、他方で、人間が元来持っている身体を使ったり、直接に相対して言葉をかわしたり、表情による伝達が、テクノロジーの進歩にも抱わらず、いやそのゆえにこそ、重視されるということも日々、経験しています。つまり、うわさや流言、あるいは落書き、さらにはパロディなどのもつ効用が見逃せません。コミュニケーションにおける表街道と裏街道、というと既に評価を含んでしまいますが、双方に目配りしたようなメディア史の方法は、まだ確立できていないでしょう。
 ただ、それはそのとおりですが、しかし、先行するメディアが、新しいテクノロジーにとってかわられるということは、今までのコミュニケーションの拠点の配置や連関性が変わってくることになります。そういう「場の変わり方」の追究こそ、メディア史と言ったときの基本的な課題ではないか、と思ったりします。

 土屋 今の場の変化というところは非常に重要で、その変化を記録するというのは実はなかなか難しいわけです。例えば映画が無声映画から音声のトーキー映画に変わったときに、何の場が変わったのかというのをこの年表で表現するのはとても難しい。新しいテクノロジーが出てきただけでは場は変わらないのだけれども、それが何かと関係して何かが変化する。ここをとらえるのが非常に大きな課題だと思いますし、執筆者が、結構苦しんでいるところだと思います。

 成田 はい。しかし、そうであるがゆえに、年表という形式をとられたのだとも思います。本年表は、アウトプットの形式であるとともに、方法的な構えともなっているということです。つまり、今までは新聞は新聞、映画は映画、テレビはテレビと、縦割りで論じられてきました。縦割りだと、いくら「場」の構成―メディア間の関係を探ろうとしても難しい。それでは、いったんそういう縦割りというものを壊してしまえ、年表という形にしたらいろいろ読み取ることが可能であろうという戦略として提供された、と。

 土屋 方法としての年表として考えてもらえるのはすごく面白いし、そうであってほしいなと思いますね。ある人から言わせるとバラバラにメディアの事象が並んでいるだけと思われるかもしれないのですが、メディアの動きが、「あ、これは同じ年にあったのか」という、意外な取り合わせ、そういう場が構成されていたことを、同時代的に読み取ってもらうことは、大事なことだと思います。それはメディアの研究にとっても大事なことだと思います。
 私が勉強してきた新聞史だと、新聞社の中の通信部分のやり方が変わってきたと記述されるわけですが、それは一方では通信社のあり方と通じているわけですし、そのような連関がもっと具体的に見えてくるといいなと思っているのです。

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 戦争と大衆化

 成田 日本近現代史を学ぶ立場から、本年表を見て思うのは、メディア史にはいくつかの橋頭堡があり、その一つが戦争だということです。近代の戦争は、人びとを「国民化」していく出来事ですが、このときメディアが大きな働きをしており、メディア史の大きな焦点でしょう。
 いまひとつの橋頭保がイベントや事件、さきの国民化に対応した言い方をすると「大衆化」となります。これらがメディア史の二つの拠点になるでしょう。
 こうした目線で本年表を見ると、前者の戦争に関して、例えば西南戦争のところの記述など実に面白い。「一八七七年二月一五日、西南戦争開始」と記されたあと、三月からの新聞で戦争報道のさまざまな様相が記述されます。仮名垣魯文や福地桜痴といった新聞人の名前とともに、上野彦馬が従軍したことが記され、メディアの参加がうかがわれます。
 さらに松林伯圓や三遊亭圓朝らも西南戦争を論じることを考え合わせれば、新聞による戦争の報道にとどまらず、講談などの物語を通じての西南戦争があり、戦争に関する多様な語りに気が付きます。いや、正確に言い直すと、これまでは、物語の形式によって認知していった戦争を、魯文たちが新聞を通じ、言わば「事実」を報道しようとするようになる動きがうかがえます。

 土屋 「事実」についてですが、伝統的に言うと、江戸時代からの戦争の語られ方というのは実録ものに代表されるものですよね。いってみれば講談の語りで、それは事実なのかということはあまり問題ではなく、語られてきた。そして、私たちもまた同様に繰り返して語るという、そういう語りの芸で、聴衆と語り手がお互いに一緒の場をつくって盛り上げていくというものでした。しかも、講談本の多くは印刷されないで、手書き本で流通している。そういう意味では、一時代前の禁制の下でのメディアでした。
 それが今度は新聞という活字メディアになり、そして戦争も電信などのニュースを使って伝えられるようになり、「事実」と称したルポルタージュ的なものが語られていく。さらに、それがまた錦絵に描かれたりして本当らしく伝えられる。でも、本当かどうかは実はカッコ付きなので、語りと事実が混在して民衆に流布する様子が、とても面白い。

 成田 そうですね。だから、メディアが介在することによって、物語としての戦争を求める心性(マンタリテ)から、戦争の「事実」を求める心性に、人びとのなかでの変化がみられるということになるでしょう。

 土屋 そう。そして、そういうことを知ることが正しい、求めるべきだという方向に新聞も雑誌もなっていく。たとえば、西南戦争の前に、仮名垣魯文が江藤新平の佐賀の乱について、『佐賀電信録』を著しています。この本はそうした過渡期を示していて、とても興味深い。これを魯文が書いた理由は、新聞には事件の報道がパラパラと出されたが、電信による速報やや手紙による伝聞などが入り交じり、伝達による時間差もあって、話が前後したり、断片的だったりして、普通の読者には何がどうなっているのか、事件の流れがわからなかった。そこで、それをわかりやすく時系列に整理した話にまとめて挿し絵も入れたのが、この『佐賀電信録』で一八七四年に出ています。当時魯文は戯作者から『横浜毎日新聞』の記者に転身してまもなくの頃で、「神奈垣魯文」の筆名を用いています。これが実録ものによる戦争の語りから報道の記事による戦争の語りへの移行の始まりでしょう。   
 新聞の記事を、実録ではないのだけれども、新しい物語、新しいスタイルの戦争を語る話にしてみようと彼は試みた。それが戦争を人びとにどういう形で伝えるかという、近代的な新形式の最初だったと思います。
 明治の初めは、新聞や雑誌でいま私たちが読んでいるようなニュースというものを受け入れる素地がなかった。ではニュースをどうやって語って伝えるか、そこにはある種芸能的な手探りがあったのではないかと思います。そういう面がこの年表から読み取れるといいと思います。

成田龍一先生 成田 はい。そして、それは一人、魯文の話というよりも、魯文があらたな語りをおこなうことにより、潜在的に人びとが持っていた関心の変化を促し、方向づけをしていくということですね。

 土屋 そうですね。戦争が大衆化と国民化の一つの大きなメディアの拠点だというのは、確かにそのとおりだと思うのです。ただ、大衆化や国民化そのものを年表に書き留めるというのはなかなか難しい。歴史学の議論としては、それは実際に十分論じられてきていますし、重要な論点だと思うのですが、これは年表の中ではなかなか難しい。つまり、国民化とか大衆化という過程が、見えるとすればどうやって見せるか、どうやって記述するかということが大問題です。
 その点では、戦争というのはメディア史から見てもテクノロジーの変化だと私は思っているのです。例えばオリンピックがテレビ技術の発展のときに一段階上がる一つのステップだと言われていますが、戦争もそういう部分がある。電信や写真はその代表として挙げられますが、そういうものがステップアップして新しい技術が投入されるのはだいたい戦争のときですね。
 それまでは試してみるだけだった技術を、戦争になって実際に使うということが行われてきた。飛行機などのテクノロジーもそうですが、私はむしろそういう側面の方が年表では追いやすいのかなと思っています。その辺はいかかでしょうか。

 メディア史の方法

 成田 戦争によるテクノロジーの発達は、コンピューターはその典型ですし、さらに現在のインターネットも戦争の中で開発されており、ご指摘のとおりだと思います。そして、「国民化」や「大衆化」の過程も、年表によって筋道が浮き上がってくることもその通りだと思います。
 メデイア史といったとき、戦争のような非日常的な事態と出来事とともに、日常に根差す出来事をあわせて扱いますが、戦争もその過程においては日常化し、事件やイベントもその瞬間には非日常の出来事となります。そして、「国民化」「大衆化」は、これらの双方が複雑に絡み合っての動きとなるでしょう。
 たとえば、「大衆化」といったとき、一九二〇年代に多様な動きが一挙に出てきます。広告がその典型ですが、新聞や雑誌の広告欄にとどまらず、ビラやポスターとしても出され、大量の広告がメディアとしての機能を果たします。横断的に広告が登場することが、年表での記述からうかがえます。
 このとき、これらの出来事の出来の意味への問いが誘発され、その問いが「大衆化」という仮説を促すという流れが続くはずです。そういう機能をこの年表は持っていると思いますし、そういう問いの誘発を想念しながら、項目選定がなされたと推察します。

 土屋 この年表は分野別にそれぞれ分担して作成されました。放送関係は立教大学の井川充雄先生、通信関係は大妻女子大学の里見脩先生、映画関係が早稲田大学の谷川建司先生、広告関係は関西学院大学の難波功士先生、慶應大学の山腰修三先生に最新のコンピューターなどのテクノロジー関係、立教大学の吉田則昭先生には雑誌・出版関係、写真関係を石井仁志さんというふうな形で執筆して頂きました。
 そのときに、どのように項目を取るのかという話が、当然議論になりました。そこでどうしようかと考えたのですが、一律の定義をするのはとても難しいので、とにかく各分野で、これはどうしても採録しておかなければいけないと判断したものは採録してくださいとお願いしました。

 成田 メディアに関し、今までの歴史学では、エピソードの集積のように扱ってきました。それをエピソードではなく、歴史を考えるうえでの重要な柱にしようとする試みの流れのなかに本書の営みがあるでしょう。土屋さんの議論に関わって、二つのことを想起します。一つは、メディア史の研究史に関わる論点、もう一つはメディア史が歴史を考えていくうえでの方法的な提起であるということです。
 まず、前者ですが、メディア史の研究史を考えるとき、新聞の歴史、放送の歴史、通信の歴史、映画の歴史と、つまり、現在私たちが知覚しているメディア―しかもマス・メディアの起源を遡っていく形で研究史が提供されていました。たとえば、新聞は一九三〇年代にその歴史が語られ、新聞史研究が開始されます。出版研究も同様に、出版が重要だと認識された時期―ひとつの画期としての一九五〇年代ころから、出版史が提供されます。これに社史が加わりますから、メディアごとの歴史の集成としてメディア史が提供されていました。
 ある時期にそのメディアの正統性、メディアのアイデンティティを確かめるために、ジャンルごとにつくられていた歴史が、その出発点に位置していたということです。
 これに対し、本年表は、そうしたアイデンティティとしてのメディア史を、二〇一七年の視座において、シャッフルし直すという作業がなされているだろうと思います。
 すなわち、新聞というものを自明のものにしたメディアの歴史を探るのではなく、また放送に関しても起源をさかのぼるという発想ではない。そうではなく、現在、新聞がどのようなメディアとして考えられるがゆえに重要であるのか、その項目を歴史のなかから掬い上げるという営みですね。放送が現在どのような位置にあるのか、そのことが考えられるような事跡の探究ということで項目を拾うということ。すなわち、メディア史の研究史を踏まえた上で、現時点でもう一度それを考え直そうという方針だろうと推察します。

 土屋 それはたぶん編集に関わった皆さんが共通して持っていたものだと思います。なぜかというと、現在のメディアの状況がそういう思考を促しているからです。今は「じゃあ、新聞って何?」「新聞は紙に印刷されているもの?」というクエスチョンが実際に付いているわけですよね。
 そうなると電子版というものは新聞ではないのか。では、新聞社とは何か。こういう問いが現実にあり、それは研究者の皆さんが共通に意識しているところで、具体的には説明していませんが、恐らく共通認識としてあった。そういうことを振り返る意味もあり、年表の中では、新聞は新聞のアイデンティティを確認するというようなものではなく、もう一回、現在のメディアを考え直すための年表という意味が非常に大きかったと思います。
 新聞史研究のそもそもから言えば、一九二〇年代に企業として発展した新聞社が、それまでの新聞の歴史を振り返るというところから始まっています。一九二二年(大正十一)に小野秀雄が著した『日本新聞発達史』は、朝日新聞社に対抗して大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が合併してから十周年の時に、同新聞社から発行されている。また、同新聞社から一九二六年(大正十五)に刊行された『十大先覚記者伝』は、初期の新聞のジャーナリストたちを検証するということを、新聞事業の先達を追悼する行事の一環として始めました。
 この二つの著書の間に関東大震災があり、古い新聞雑誌や資料が失われたため、宮武外骨や明治文化研究会の人々が収集や記録を始め、そこから出版史なども振り返られることになる。その延長上に一九三〇年から刊行された『綜合ヂャーナリズム講座』が成立した。これが戦前におけるメディア史研究の始まりと言っていいと思います。
 そこで、戦後の研究がどこから始まったのかという問題が実はあるわけです。戦前の研究がどう引き継がれたのかについては私もよく確認していませんが、戦後は「マスコミュニケーション研究」というものが出てきます。つまり、南博をはじめとする社会心理学が入ってきて、その中でいわゆる文化研究として日本の新聞・雑誌、メディアというものを取り上げるようになった。
 それも活字メディアだけを取り上げるのではなく、その周辺のいろいろな語り、ビラ、替え歌みたいなものも含め、社会心理を研究するという中に、現在言われるメディア史研究の萌芽が包まれていて、実際に私が学んだメディア史研究の先駆者である山本武利先生、有山輝雄先生、竹山昭子先生などの世代は、全部南博の影響を受けていると言えるかと思います。
 ですから、新聞社が自らの歴史を検証する一方で、米国を起源とする社会心理学の研究がメディアの研究を見直す契機となり、特に社会心理、日本人の社会的な心理を誰が、どういうふうにつくってきたのかという興味がメディアに向いたということがあると思います。

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 成田 小野秀雄が新聞史の研究を開始されたのは、ちょうど新聞自体が大きな転換をする時期ですね。各地域にあった小さな新聞社が、大きな資本に統合され、大資本による全国紙が登場してくるという転換期。このとき『日本新聞発達史』という大著を書きますが、新聞をめぐる状況の変化に対する、小野なりの敏感な対応でしょう。
 メディア史は、そうしたマテリアルなジャンル、テクノロジーによる新メディアの誕生、それらを実践する企業を念頭に置きながら考えられてきます。これは、戦前にその原形を持っているといえます。
 戦後は、ご指摘のように、新たにマスコミュニケーション論として、南博たちの社会心理学が重要な役割を果たしています。コミュニケーション論として、メディアというものを媒介にしながら人と人、あるいは人と社会の関係が、どのように再編成され、変化していくかという研究でした。
 南たちの議論は大きな影響力をもち、歴史的な分析として、私などにとっても『大正文化』(一九六五年)は必読本でした。マテリアルというよりは、むしろファッション、流行や、うわさなど、言ってみれば目に見えにくいもの、あるいは移ろいゆくものへの関心が強くうかがわれました。また、大きな動向を押さえながら個人の趣向に入り込み、意識的なものとともに無意識の領域をも扱おうとするように感じました。メディアの領域と役割を一挙に広げていくような仕事だったと思います。
 しかし、南たちの仕事は、当初、どのような形で受け取られていたかというと、世相史・流行史・風俗史としてでした。講座日本風俗史編集部編『講座 日本風俗史』(雄山閣出版)という講座のなかで、第一一巻「昭和時代の風俗」(一九五九年)が「昭和」の風俗を扱うのですが、南博さんが編者となり、巻頭に「昭和時代の風俗」を執筆しています。新聞や雑誌などを、マテリアルの局面ではなく、その効果とでもいうべき側面から扱い、なかなか可視化できなかった領域を可視化し、メディア史に接続したということができるように思います。

 土屋 そういう言い方もできると思います。あともう一つ、現代のメディア史という考え方をするときに私自身が影響を受けているのは社会史です。アナール学派に直接影響を受けたというよりは、それに影響を受けた日本の歴史家たち、例えば良知力とか、阿部謹也とか、安丸良夫の民衆史とか、民衆がどのように歴史に参与し、歴史をつくってきたかという観点の歴史的な叙述というものが、もう一つあると思っています。
 従来の歴史学だと、まずは王朝の歴史、つまり、権力者の歴史、その正統史を叙述するというのが大目的でしょう。しかし、そういうものだけが歴史学なのかというと、これに対するアンチテーゼという意味合いが民衆史とか社会史にはあった。

 成田 さきの第二の論点にかかわりますが、歴史学の転換とメディア史との関係は、興味深い主題ですね。歴史学が私的領域へと対象を拡大するときに、文学研究とともにメディア史の影響も大きかった、とあらためて思います。メディア史からは、同時に認識面でも刺激を受けているでしょう。たとえば、世論をめぐり、あらかじめ人びとの意見があるのではなく、メディアによってつくられるとの議論。しかし、対抗的に、調査をすれば人びとの意思や方向はわかるという議論があります。実在/解釈をめぐる議論は、歴史学でも焦点となりつつあります。ようやく、ですが(笑)。
 さらに、佐藤卓巳さんが提起する、「世論」と「輿論」―ポピュラーセンチメンツとパブリックオピニオンとを分節し考察する議論もまた示唆的です。歴史学における、集合的記憶の重要性の喚起とも接点を有する議論となっています。

 土屋 メディア史は、結局、今までの歴史研究とか社会心理学、社会史でもいいのですが、そこではちょっと飽き足らないという人たちがやっているように思います。具体的に言うと、日本近代史研究出身の人と、私のように社会学とか社会心理学の分野の人と、あとはマテリアルなもの、つまり雑誌とか新聞とかの古い物が好きでコレクションをしている人と、三系統ぐらいある。この寄合がなかなか面白いわけです。
 つまり、純粋にアカデミックかというと、そうでもない。歴史系の人、社会学系の人はそれぞれ学問的エリアがあるのですが、コレクターの系列の人は全く個人的な関心で面白いからいろいろな現物を集めている。たとえば、日本新聞博物館に寄贈された、明治以降の新聞雑誌の膨大なコレクションである羽島知之コレクションや、戦中及び占領期の雑誌を集めた福島鋳郎コレクションは、何かの学問とは関係なく個人の思い入れで集められたものですが、そういう人たちの持っている史料が私たちにとってはたいへん役に立っているわけです。民間史家というか、そういう部分をくみ上げているところがメディア史の研究にはあると思います。

 成田 メディア史研究にはアカデミズムと民間・在野の両方の人がおり、実際にそうした共同作業がなされているということですね。マスメディアの現場の人も加えるとメデイア史にかかわる方々の多面的な構成がうかがえます。資史料に関わって、その構成が有効に働いていることは興味深いことです。
 このことは、いくらか飛躍しながらいうと、一見対抗的なものがともに扱われている、ということです。先にも話題としましたが、メディア史は「公」と「私」、「日常」と「非日常」の双方を対象とし、双方を分析する視点をもちます。対立的なものをともに扱い、組み込んでおり、これがメディア史の領域となっていると思います。今までやってきた事柄であるでしょうし、この年表からも、そうした事柄が多々うかがえます。
 これは、歴史学が志向することと重なっています。今までの歴史学が公的な政治を扱い、その反省から民衆の日常に着目するようになったのですが、振り子を片方に振り切ってしまったときには、どうにも不十分です。このように考えると、メディア史は、歴史学のいま考えている課題を、より明示的に実践しているとさえいえるでしょう。

 土屋 そう言ってもらえるとこそばゆい感じになります(笑)。

 成田 いくらか、隣りの芝生の青さの強調になっているでしょうか(笑)。ただ、方法としてのメディア史の可能性、そして、その守備範囲がこの年表からうかがえます。

 本書の特徴

 土屋 たいへんお褒めにあずかったような気がしていますが、何かご要望とか、ここは疑問に思うというところがあれば、ぜひお聞きしたいと思います。

 成田 歴史学の課題との重なりという観点からすると、例えばペリーの記述など、連想を誘います。一八五三年にペリーがやってきたことで日本の近代が始まったということが通説になっています。その出来事を、この年表でどう記しているかと言うと、ペリーが二度目に日本にやってきたとき(一八五四年)、「各寄港地の琉球、下田、横浜、函館などをダゲレオタイプで撮影した」とある。これなどはハッと思わせる記述です。
 なにを意図して、ペリーが写真撮影をおこなったか、と想像力が広がります。幕府と折衝をするという「公」の任務をもつペリーの行為は、当然、記録写真となりますが、何を写しただろうか。ペリーの持つ役割とその関心。そこへ私たちの想像力を膨らませていく記述になっています。
 あるいは、敗戦の日の記述も同様です。一九四五年八月一五日に玉音放送があり、アナウンサーによる解説などが続き、鈴木貫太郎・首相がその後、戦争終結の告知をします。年表にはさらに、「一週間の全国の映画興行停止」という一行が付け加えられている。人びとがニュース映画によって情報を視覚化し具体化していたことを考え合わせれば、大きな出来事です。また、数少ない娯楽も停止されてしまったことが、記されています。
 玉音放送のもたらした効果は、議論がなされています。新聞の配達を玉音放送後になるように遅らせ、敗戦を活字ではなく、声で知らせ、身体的なもの、オーラルなものを重視した大日本帝国の作為が指摘されています。となると、ラジオとともに、さんざんに利用されてきた映画を利用することも考えたでしょう。その映画に関し、「申し合わせで」映画興行が停止されたと記されたことが目を引きました。

 土屋 ただ、今のところに関して言うと、新しいフィルムが間に合わなかったのではないかと思います。つまり、戦争が終わったけれども、興行のフィルムは「これから頑張りましょう」という、戦争を推奨する映画だったと思うんですよ。土屋礼子先生

 成田 はい。たしかに、劇映画はそうでしょう。簡単には、敗戦後の事態にもとづいた映画を提供することはできません。しかし、今で言うニュース映画は、可能でしょう。映画館が興行を停止するということは、ニュース映画も流れないということですね。

 土屋 そうです。

 成田 ニュース映画は、重要なプロパガンダです。継続して支配を行っている大日本帝国が、それを利用しないという手はないと思うのですね。しかし、その手は使わない。むろん土屋さんがいわれるように、物理的な制約が大きいでしょうが、ある意図も働いていたような……。

 土屋 空白になってしまったわけですよね。

 SNS時代を生きる私たち

 ――ここで、現在の問題にふれます。本書には付録の表(戦後の媒体別広告費の推移)が付いています。これを見ていくとそれぞれのメディアの影響力が見えてくると思うのです。一九六〇~七〇年にテレビが勃興してくる時代は、メディアが新聞からテレビに取って代わられるのですが、二〇〇七年に雑誌の広告費をインターネットが抜きます。
 そこを考えていくと、現在私たちが目の前にしているSNSの発達というのは、今までのメディアの発展と比べてどれくらい大きい変革と考えていいのでしょうか。

 成田 先ほど新しいテクノロジーの登場のもたらす衝撃を強調しましたが、ただそれが出た瞬間に、今までの関係性―コミュニケーションのやり方が変わり、変化が一挙に進むかというと、そうではないですね。新しいテクノロジーを旧来の心性と作法でだんだんと馴致し、新しいメディアとメディア環境に慣れていくのでしょう。移行の期間があると思います。

 土屋 社会としてはそうですよね。

 成田 個人の次元では多様ですけれどね。つまり、SNSは、誰もが発信をして、それをみんなが一挙に共有するといいますが、改めて考えると、従来もそうしたことはありました。自分の意見を提出し、共有したいという人は沢山いました。たとえば、新聞に投書し、雑誌に投稿し社会に伝達することは広範に行われてきた。
 しかし、それが新しいテクノロジーのもと、厖大に広がっていったというのがSNSということでしょう。なるほど、量的な拡大は以前とは比較になりません。また、伝達の仕方も多様に、複雑になっています。しかし、根底にある自らの発信の欲求を出発点とした作法は、一挙に新しくなったのではないと思います。
 また、SNSなどで、情報が不特定多数に共有され社会化される局面はあらたな事態のように見えます。今まで見知っていた範囲で共有されていた情報が、文脈を離れて、まったく異なった社会に投げ出され、これまでとは違った文脈で受けとめられ解釈されるようになります。文脈の共有、共通の文脈を持たずに切りはなされ、情報が独り歩きします。
 しかし、こうした事態も、近代当初の活字がもたらしたことがらではありました。オーラルなものが活字になるとき、遠く離れた場所で、違った文脈のもとで人がそれに接していきました。メディアの推移の経験は、インターネットやSNSに対しても有効でしょう。

 土屋 これからはどうやってパブリック(公共性)を形成するか、これがメディアによって変容する部分が、非常に大きいのではないかと思います。新聞や雑誌がつくってきたパブリックのつくり方とSNSがつくっていくパブリックのつくり方は、やはり少し違う。影響のスピードも違うし、範囲も違う。SNSも結局階層化している部分がありますし。
 だから、そういうことがどんどん明らかになっていくと、出版や放送とは違うけれども、似たようなパブリックのつくり方が出てくるのではないかと私は思っています。

 成田 ただ、プライベートなものとパブリックなもの、つまり公共圏と親密圏の生成と関係性、その持つ位相の測定などは、メディア史研究の重要な課題でした。その課題が、あらためてSNSやインターネットなどの新しいテクノロジー、ニューメディアによって突きつけられているということでしょう。新たなメディアが登場することによって、今までの議論が帳消しになるのではなく、むしろこれまでの議論が試されてきているということだろうと思います。

 土屋 実際にフェイスブックに対する規制が各国で議論されていますが、年表にあるような過去における個々のメディアの議論が、新しい未来を考える上でも参照項になるでしょう。

 ――本日はありがとうございました。

(2017年12月19日)

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PR誌本郷第127号収録
『天皇の美術史』刊行記念鼎談

美術史の魅力と愉しみ

 
髙岸 輝
たかぎし あきら
1971年、アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。現在、東京大学大学院人文社会系研究科准教授。主要著書=『室町王権と絵画―初期土佐派研究―』、『室町絵巻の魔力―再生と創造の中世―』など
橋本麻里
はしもと まり
1972年、神奈川県生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。日本美術を領域とするライター、エディターとして活躍。明治学院大学非常勤講師、永青文庫副館長。主要著書=『京都で日本美術をみる 京都国立博物館』など
五十嵐公一
いがらし こういち
1964年、愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、大阪芸術大学教授。主要著書=『近世京都画壇のネットワーク』、『京狩野三代 生き残りの物語―山楽・山雪・永納と九条幸家』など

 

美術との出会い

――本日は来年1月から刊行開始する『天皇の美術史』の企画編集委員である髙岸先生と五十嵐先生、そして今、テレビや雑誌などでご活躍中の橋本先生にお越しいただきました。まずは、先生方が美術に携わるようになったきっかけをお聞かせ下さい。

 髙岸 もともと僕はデザイナーの仕事に憧れがあったんです。


 橋本 そうだったんですか!

 髙岸 美術と歴史とはずっと好きだったのですが、高校卒業となると進路を決めなければいけない。そのとき文系・理系という分け方に収斂されることがすごく嫌で、ハタと見ると芸術系という部門が(笑)。

 橋本 第3の道ですね。

 髙岸 はい、芸大に行きたいなと思って。一番やりたかったのは車のデザイン。イタリアの工業デザイナー、ピニンファリーナとかジウジアーロとか、本当はそちらに行っているはずだったけど道を外して…。


 五十嵐 初めて聞きました(笑)。私は美術にまるで興味がなかったのですが、たまたま高校3年生のときに読んだ高階秀爾先生の『名画を見る眼』(岩波新書)が面白かった。絵画に意味や歴史があることを知ってからです。

 橋本 髙岸先生はそんなに早くからデザインに関心を? 早熟ですね。

 髙岸 子どものときから図工に得意意識があって。

 橋本 五十嵐先生は見る方だった?

 五十嵐 何も作れません(笑)。作っても「よく頑張ったね」という感じ。

 髙岸 今でも作る側にいた自分というのを常に思い描いてしまうんですね。

 橋本 あったはずのもう1つの人生…。

 髙岸 今ごろ僕の車が走っていたかな、とか思います(笑)。

 五十嵐 美術史でそういう人はいるかな。

 髙岸 結構、実技崩れという。

 橋本 実技崩れ(笑)。

 髙岸 芸大は多いと思います。第1巻の増記隆介さんは東大ですが実技も。

 五十嵐 日本画を描いていたそうですね。

 髙岸 橋本さんはどうですか。

 橋本 私も図工は好きでしたが、美術に深い関心はなかったですね。私の場合、研究者だった伯父の影響で文化人類学に興味を持っていましたが、ベルリンの壁崩壊や天安門事件があった時期で、つい浮気をしてICUに入学、国際関係を勉強したんです。国連機関に就職しようと考えていたのですが、結局また文化人類学に引き返して、双墓制(両墓制)をやりました。

 髙岸 まだ美術の美の字も出てこない。

 橋本 卒業後、就職したのがいけばなと現代美術の二刀流の出版社だったんです。そういうものを仕事として扱っているうちに、美術や茶の湯などに関心を持ち始めて…。その後、独立したライターになったときに、現代美術と日本美術の両方について書く人がほぼおらず、両刀使いができるというので、いろいろな形で便利に使っていただくうちに、こんなことになっていました、という経緯です。

 

日本美術ブームの到来

 髙岸 2000年の少し前くらいから、日本の古美術研究や展覧会が変わってきましたよね。展覧会にはお客さんを入れなければいけなくなったし…。

 橋本 その変化のきっかけは何なのでしょう。いわゆる「日本美術ブーム」は、京都国立博物館(京博)の若冲展から、という言われ方をしますが。

 髙岸 その時期に博物館にいた五十嵐さんは肌で感じていた?

 五十嵐 新聞社の巡回展にはお客さんが来る。でも、自主企画展はお客さんが来ない。そういう状態が少し変わってきたように感じていました。

 髙岸 お客さんも展覧会の企画も変わった。昔は東博(東京国立博物館)本館の特別展でも閑散としていて、どこか「研究者しか相手にしていません」という構えがあったし、京博の常設展はそれが長く続いた。院生がギャラリーで学ぶには最高の環境でした。図録もアカデミックだけど、デザインは凝っていなかった。それが90年代の終わりぐらいに、京博の図録が急におしゃれになり始めた。

 五十嵐 デザイナーが入るようになったんだと思います。また、展示のデザイナーなんて昔はいなかったですよね。

 髙岸 94~95年くらいまでは、国立博物館の展覧会でも企画者の顔が見えた。それが今残っているのは京博?

 五十嵐 京博とは一緒に仕事をさせてもらったことがありますが、頑張っておられますよね。

 橋本 独立行政法人化以降の流れが、結果的に今、日本美術の展覧会に多くの人が足を運び、テレビ番組のコンテンツにもなり、という状況に結びついているのだとしたら、今の状況をプラスに、ポジティブに評価していいのでしょうか。

 髙岸 以前はアカデミックな組織運営だったとおもいますが、今は観客の目を強く意識していることが伝わってきます。日本美術がブームといわれているけれども、いつかは終わると思っています。だから今、ぎりぎりのところで美術館・博物館は努力しているのではないかと思うのですがどうでしょうか。

 五十嵐 これまでの様々な研究成果を吸い上げて展覧会を作っている。頑張って吸い上げているという状況ではないでしょうか。

 髙岸 例えて言うなら、昔は地下に石油はいっぱいたまっていたけど、吸い上げて地表に出すパイプが細かった。今はどんどん吸い上げているから、枯渇に向かわないか心配です。

 五十嵐 それを何とかしたいとう意図が、このシリーズにはあります。その鉱脈として権力、天皇に目をつけたわけです。

 橋本 これまで手をつけられてこなかった鉱脈だろうと。

 髙岸 天皇だけとか、権力そのものだけで日本美術を通史的に編むということは、今まで意外となかったのではないかと思います。

 

シリーズ誕生と伊藤若冲

 五十嵐 初めてこの話が出てきたのが、2011年8月。吉川弘文館から新しいシリーズを作るので、どうですかと声をかけてもらって。

 髙岸 私も五十嵐さんも吉川弘文館から単著を出していますが、これらの延長線上にある「権力と芸術」というのが、大きなテーマになるかな、と思いました。

 五十嵐 言い出しはどちらともなく。

 髙岸 とにかく一本筋を通したシリーズものがいいよねという話をし、考えられるキーワードは何があるだろうか、ということでしたね。

 五十嵐 最初は一人一天皇という方針があったのですが、影響力の強い天皇、そうでもない天皇がいて。

 橋本 濃い薄いがある。

 五十嵐 ええ。それで構成も大きく変わりました。

 橋本 大正までで終わらせたのは、あまりにも現代史に過ぎ、まだ研究の対象になり得ないからですか? その先にある現代の天皇と美術というテーマは、非常に気になります。

 髙岸 おっしゃるとおりで、美智子皇后は美術に精通されていて、皇族の方で研究者もいらっしゃいます。そして、今の美術館の現場に行啓される。

 五十嵐 美術館だけでもないですよね。

 髙岸 そういう方々が、広い意味での美術史にかなり重要な役割を果たしているという気はします。

 五十嵐 「展覧会に天皇がいらっしゃいました」というと、ニュースになりますよね。

 髙岸 その辺は橋本さんの方が(笑)。

 橋本 いや、よくは分からないのですが、権力と美術ということでいうなら、今の天皇にはいわゆる政治的な権力はない。かといって文化をつかさどる権威であるという立場でもない。彼ら皇族が美術に関わることを許されているのは、権力と関わらない分野だからということで、生物学を研究なさったり、美術館に行幸啓なさったりということなのかなと思うのですが、近代以前とは反転した状態にある現在の天皇と美術の関わりについては、やはり読みたかったところです。

 髙岸 2年前、三井記念美術館の「東山御物の美」展では会期末ぎりぎりになって行幸がありました。まさに室町時代の北山殿とか室町殿への行幸が再現されていて、本来、それは政治以外の何物でもなかったわけですが…。美術というのは文化の領域に属するということで、今の天皇が政治に関わることをうまく回避できる部分でもある。でもまったく政治的でないかといわれれば、そこは研究の余地がある問題という気はします。

 五十嵐 でも、この点は扱えなかったかな。全6巻を作るだけで精一杯でしたから。

 髙岸 もう少し歴史の検証を待ちたいところですかね。今やってしまうと、1次資料ではあるけれども、検証、研究した内容と言えるかどうか。各美術館で行幸啓をお迎えした方にインタビューをして、実際にどういうお言葉があったかなど、すごく知りたいですが。

 橋本 折々にいろいろな方からそのあたりの話を伺うと、面白いエピソードを話してくださるので、かなりあるはずです。

 髙岸 このシリーズがいったん終わって、その後新たに、という形があるかもしれません。

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 橋本 現在の日本美術ブームの中で、核になっているのは伊藤若冲ですが、その中でも最も愛され、人気の高いコレクションが御(ぎよ)物(ぶつ)の中にあるのも面白いですね。

 五十嵐 若冲は私が担当する第5巻の時代なのですが、出てきません(笑)。というのは、5巻は御所障壁画に注目したからです。御所障壁画は江戸在住の狩野一門が描くことになっていました。ところが1788年の天明の大火で御所が焼失し、それが変わります。御所再建は幕府の仕事だったのですが、その頃の幕府はお金がなかった。そこで御所障壁画制作を京都在住の絵師たちに任せたわけです。安くあがるからです。その際、土佐家と鶴沢家に京都在住の絵師たちをまとめさせた。その結果、土佐家と鶴沢家が注目される。京都の人名録である『平安人物志』では、天明の大火以前の序列トップは応挙、2番目は若冲です。ところが、天明の大火以降は土佐と鶴沢が最上位、それ以外の絵師がその下のランクになるんですよね。

 髙岸 面白いですね。

 五十嵐 18世紀後半、確かに応挙や若冲は、天明の大火以前の京都で大変な人気があった。ところが天明の大火で、新たな絵師の序列ができてしまう。それが京都の絵師たちの活動を、つまらなくしたのかもしれませんね。

 髙岸 つまらなくなったというと買ってもらえなくなるので(笑)。

 五十嵐 そうですね。言葉を選ばないといけないですね。

 髙岸 辻惟雄先生が「奇想の画家たち」を再評価し発掘した。発掘したということは埋めた人がいるわけで。

 橋本 埋まっていた状況があるわけだ。

 髙岸 その状況は、今までほとんど語られてこなかったわけです。掘り起こした人を評価すると同時になぜ埋まっていたのかを見れば、掘り起こしたことの価値も、もっと上がってくる。

 橋本 同じような事例は、文化の別の領域でもあったのでしょうか。秩序の回復といったらいいのか、ある自由な状況が、そうではない状況に移行する、ということが。

 五十嵐 ほかの文化はどうでしょうか。ただ、天明の大火は京都の大事件だったように思います。それまでの比較的自由だった状況を変える契機だったのではないでしょうか。

 髙岸 そうすると、今は天明の大火以後みたいな状況になっているのか…。

 五十嵐 ついでに言うと御所障壁画を描く絵師は登録制だったんですよね。絵師は登録業者。だから、今の公共工事のやり方と御所障壁画を描く絵師の選ばれ方というのはよく似ているんです。

 

天皇と美術

――各巻の内容、見どころについてお聞かせ下さい。まずは第1巻から。

 橋本 毎年この時期に奈良博で正倉院展が開かれていますが、天皇による文物のコレクションの始まりはあの頃からですね。

 五十嵐 後白河法皇がものを集めてきたことと、正倉院でものを集めたことを第1巻を担当した増記さんがなぞらえて論じているんですよね。そういう視点はものすごく面白いと思います。

 橋本 聖武天皇の妻の光明皇后が正倉院にコレクションを残した。そこには、例えば中華皇帝のコレクションを意識するような部分はあったのでしょうか。

 髙岸 少なくとも後白河の時代、北宋の徽宗の美術コレクションというのは、すでに日本で認識されています。

 橋本 憧れの対象になっているんですね。

 髙岸 第1巻でかなり明確になっていると思います。中華皇帝のコレクションと、権力とを直結させるような考え方は、古代国家の中で重要な役割を果たしていた、ということになっています。

 五十嵐 第1巻は扱う時代がすごく長い。よくまとめてくれたなという感じです。

 橋本 平安末の院政まで入っている。

 髙岸 実は鎌倉まで入っているんです。

 橋本 第1巻と第2巻は微妙に重なり合っているようですね。

 五十嵐 個性の強い天皇が出てくるので重なってしまうんです。

 髙岸 第1巻から第3巻までの要になっているのは後白河で。

 橋本 3冊共に出てくるのですね。

 髙岸 後白河の大仏開眼供養。源平合戦で焼けた後の大仏開眼で、最初の開眼のときに使った筆を正倉院から持ってきて、そこでちゃんとループするんだと。

 五十嵐 面白い点に注目したなあ、と思いました。

 橋本 完璧なページェントですね。

 髙岸 続く伊藤大輔さん担当の第2巻はシリーズで最初に刊行されるのですが、これがまた濃い1冊で。

 五十嵐 加須屋誠さんが、そのまま単行本になりそうな原稿を書いてくださった。ページ数は大幅にオーバーでしたが、全部もらわなければ損だと皆で判断しました。

 橋本 後白河・後鳥羽・後醍醐がいて、もうお腹いっぱいという感じで。

 髙岸 橋本さんからみても、14世紀はすごく印象の薄い時代というか…。

 橋本 美術の通史だと、南北朝はさらっとスルーされちゃうんですよね。

 髙岸 これまでの研究はいくつか山があって、その山から谷を埋めていくというやり方できてるから、仏教美術だと平安、鎌倉がひとつの山、次の山は桃山あたりの近世絵画。谷底の日陰になっていたのが14世紀。だから、鎌倉時代の絵巻・彫刻・仏画で、よくわからないものは全部14世紀に放り込んできたわけです。

 五十嵐 ところが、頼朝の神護寺3像の。

 髙岸 そう、あれで状況が変わったんですね。伝頼朝像が14世紀のちょうど真ん中だという話になって。

 橋本 あれは何年でしたっけ。

 髙岸 1345年が最初の2幅です。後のもう1幅が51年ごろですから本当に真ん中なんです。今まではほとんど注目されていない、分からないものを放り込んでおくブラックボックスみたいな。

 五十嵐 そう、ブラックボックスですね。

 髙岸 そういうところが14世紀だったのですが、後醍醐という強烈な帝王がいて、そのブラックボックスを後醍醐中心に見直すと、実は大変豊かな場所だと。僕は若冲の発見に匹敵すると思っているんです。辻先生の『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫)で18世紀が面白いと分かったとすれば、今回の第2巻で「南北朝、実はすごいよ」ということが、日本美術史でほぼ初めて分かったのではないかと思います。

 橋本 歴史の分野での南北朝、後醍醐ブームは昔からありましたよね。なぜそれが美術史に反映されなかったのでしょう。網野善彦さんのようなトリックスターがいなかったから?

 髙岸 文学でも『太平記』の研究はすごく盛んで、歴史では常にホットであり続けている14世紀が、美術史で注目されてこなかった理由というのは…。

 五十嵐 柱になる作品がなかったところに頼朝像が出てきたからではないでしょうか。

 橋本 やっと拠りどころになる、足掛かりになる作品が見つかった。

 髙岸 このインパクトはかなり大きいですよね。

 五十嵐 そんな第2巻が、最初の刊行というわけです。

 

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  髙岸 私が担当している第3巻。室町・戦国は、日本の歴史の中でも江戸と並んで天皇の権威が最も落ちてきた、最も存在感が希薄だったといわれている時代です。一方で、足利将軍や戦国大名、そして天下人が出てきます。金閣(北山文化)・銀閣(東山文化)や大坂城・安土城・聚楽第(桃山文化)が美術の象徴だったといわれるのですが、最近、歴史の研究を見ていても、彼ら武家側の支配者たちが天皇と深く関わり、公家社会と混然一体となっていくことが見えてきました。将軍と天皇が一体化し、ハイブリッド化していくことによって新しい武家政権は古典を手に入れ、天皇の側は古典を維持するためのお金を得た。お互いウィンウィンで、文化と経済、あるいは権威と生活、それぞれの交換が成し遂げられる時代です。戦国時代の天皇は、権力としては衰退の極みといわれていたけれども、すごく立派な書を書くんです。これには超然とした迫力を感じます。

 五十嵐 できれば書(宸(しん)翰(かん))を扱った章が、どこかに欲しかったですね。

 髙岸 宸翰というのは天皇自身がアーティストでもある。

 橋本 それこそ正倉院に入っているコレクションの中で、制作者の個人名が立っているものって書にしかありませんよね。日本で「美術」と見なされたものの始まりで、かつ天皇家のコレクションの中でも重んじられてきたのは書だと思うのですが、同時に彼らが書けば宸翰となる。そういう意味では、ぜひ書で1章を立てていただきたかったです。

 髙岸 鑑賞者、あるいはコレクターとしての天皇だけではなくて、制作者側の天皇という話ですね。天皇本人、あるいは宮中でさまざまな女性皇族たちが、実は絵を描いたり、飾り物を作ったりということで活動している。そのことの意味は結構大きかったことが、第3巻、第4巻で見えてきました。作り手の問題というのは、今回注目したポイントのひとつです。

 五十嵐 野口剛さん担当の第4巻、私が担当した第5巻で江戸時代を扱っているのですが、門脇むつみさんが注目したのが、江戸時代前期の大物である後水尾天皇。たくさんの子どもたちが描いた絵、書はどんなものかというのを論じてくれました。

 髙岸 野口さんの原稿は、琳(りん)派(ぱ)と天皇の関係をかなり深く追究しているので、これも画期的なものですよね。

 五十嵐 私は第4巻で、御所障壁画の通史を書きました。先ほど言ったように、天明の大火以前、江戸在住の狩野一門が御所障壁画を描いていました。彼らに注目して時間軸をつくったという感じです。続く第5巻は天明の大火以降。光格・仁孝・孝明天皇の時代です。少しマニアックになってしまったかもしれません(笑)。

 髙岸 いまだかつてない充実した史料です。

 五十嵐 どのような選考があって京都在住の絵師たちが御所障壁画を描いたのか、その実情を暴いたのが武田庸二郎・江口恒明両氏の論文です。そして私は、江戸時代の最後の天皇である孝明天皇について書きました。ペリーが浦賀に来てから急速に日本は変わるのですが、天皇の周りで美術は動いていったという話です。最後の第6巻は塩谷純さんの担当ですが、まるごと明治天皇に注目したという内容になっています。明治天皇が美術史に果たした役割はそれだけ大きかったということですね。

 髙岸 このへんは橋本さんもいろいろと。

 橋本 御真影の問題とかも含めて、問題山積ですね。

 髙岸 まさに現代に直結するような…。帝室博物館もそうだし。

 橋本 近代的な美術の制度がみんな天皇絡みでつくられていくという。

 五十嵐 最初の天皇の写真が隠し撮りだったと書いているのは第六巻でしたね。

 橋本 そんなことして大丈夫だったんですか(笑)。

 髙岸 今でいう盗撮(笑)。

 橋本 では、公に認められた御真影ではなくて。

 髙岸 それが民間で流布するという面白さですよね。伝統的な皇室だけれども、西洋的な技術や表現の受け入れ口にもなっているということです。正倉院からしてそうですが、ヨーロッパやアメリカも含め、広い意味で唐物受け入れの公式な窓口としての天皇、というのは全巻を通してのテーマです。さっき紹介しなかったけど、第3巻の黒田智さんの観点も大変面白い。安土桃山時代に後陽成天皇が地球儀を見たという話です。そのことの象徴的な意味。

 五十嵐 黒田さんが書いてくださった章は刺激的ですよね。

 髙岸 先ほどの加須屋さんの14世紀論というのも、初めてだけれども、黒田さんの16世紀論というのも、初めて全部まとめて論じています。ありとあらゆる江戸の美術のベースになっているものは、16世紀に出そろうわけですが、その辺の問題を地図まで含めて見ています。

 五十嵐 秀吉が大坂城で持っていた書画リストの新出資料があるんです。

 髙岸 結構、東山御物が流入していることとか。

 橋本 そういう意味で、茶の湯は1つ大きな受け皿だったと思うのですが、武家に好まれた墨蹟中心の掛け物に、歌(うた)切(ぎれ)が入ってくるのも16世紀です。

 髙岸 和物もそこから再評価ですよね。

 橋本 貴族、公家たちが持っていたものが使われるようになる。そして、それに価格がついていく。

 髙岸 細川家もずいぶんと、その価値付けの問題とはかかわっていますね(笑)。

 橋本 価値の「創出」は重大です。公家にも切実な貧乏脱出作戦ですから。

 髙岸 信長にとって茶道具などを蒐集、強奪、展示、下賜する最大の理由は由緒だと。どこかの戦いで城を陥としたときに、こういう大名からこれを奪ったんだということを茶室で語りたいために、そこにポンと置いておく(笑)。そして茶室に来た人とのファーストコンタクトで、「いやこれ、最近手に入れて。このあいだ松永弾正がね」と語るような、極めて生々しいものですね。

 橋本 ということは、モノそのものの価値というより、物語消費。

 髙岸 だから、由緒書きというものをとにかく信長は必要とした。またそれを書く専門のライターが、この時期につぎつぎに出てくるわけです。

 橋本 それこそ今の歴史学における信長の描き方というのでしょうか、信長がどういう目的をもって彼の戦いを戦っていたのか、その見方が近年大きく変わってきていますよね。そういうあり方とも…。

 髙岸 深く関係してきますね。安土城も茶道具もそうですけれども、視覚的な形になったものを信長がどう活用したかということがかなり明確になった。それを秀吉は、忠実にトレースをしている。そういう意味ではいい師弟関係、2人で1つみたいなところがあります。

 橋本 権力と美術。でも信長の、弱体化する天皇とその秩序を守る将軍、そして将軍を支える自分、というあり方と、その由緒書き主義みたいな感じは、すごくシンクロしていると思いました。

 五十嵐 秀吉は無邪気に天皇に近づいていったように見える。信長は利用するために天皇に近づいているけど、秀吉は近づいていって官位をもらったり、関白になったり、天皇を聚楽第に呼んだり…。

 髙岸 そういう無邪気さが許されるだけの天下の安定と、莫大な経済力が。一方、家康はそこから一歩引いてかなり慎重にやっていた。

 五十嵐 家康は鎌倉幕府をサンプルにして、京都から離れたところに幕府をつくったから、どっぷりではなかったんでしょうね。江戸から天皇をコントロールするというやり方ですよね。

 髙岸 後白河が持っていた絵巻を、源頼朝は見せてやるといわれたのにあえて断ったという有名なエピソードがありますね。おそらくそれを地でいったのは家康だったと思います。実は家康も結構、絵巻をコレクションしている。あの人は本が好きだから。

 五十嵐 そうすると、後水尾天皇が後白河の役割かな。

 髙岸 本人たちが意識するしないにかかわらずなぞってしまっていたんでしょうね。

興奮と期待と

――最後に本シリーズについて一言ずつお願いします。

 五十嵐 どの執筆者の方にも、少しでも新しい史料を加えて何かしようという姿勢があったような気がします。ありきたりの通史の本にはなっていません。そんな点を理解していただけると嬉しいですね。

 髙岸 企画編集委員として各原稿の最初の読者として接する幸運に立ち会っているのですが、皆さんいろいろな意味ではみ出しています(笑)。ですから、問題作がたくさん詰まっていて、五十嵐さんがありきたりではないと言った意味は、そこですね。まったく新しい切り口をひとつ設定するだけで、美術史の叙述がかくも豊かになるのかという新鮮な驚きというか。

 五十嵐 皆さんの原稿を読んで興奮しました。

 髙岸 興奮と同時に、打ちのめされるんですよ。すごい書き手のものを共著として読んでしまったときの、「やられた」という感じを今回は何度も味わいました。

 五十嵐 サラッと美術史を勉強しようという方には違和感を与えてしまうかもしれないけれども…。

 髙岸 本シリーズに出てくるさまざまなストーリーは、今後、美術館で学芸員の皆さんが企画をされるときの種になると嬉しいです。

 橋本 今日お話を伺って、14世紀の問題、16世紀の問題など個別に読みたいテーマもたくさんありましたし、同時に天皇という切り口を作ったことで見えてくるものもさまざまにあるように思います。単に美術史の問題として終わるのではなく、読み手自身がそこから、権力とは何かという問題意識を持つこともできるはず。政治史であったり、もう少し大ざっぱに日本史といってもいいですが、そちらの方面からではなかなか見えにくい日本の権力のあり方のようなものが、このシリーズを通じて明らかになってくるのではないか、という期待がありますので、そういう意味でもとても楽しみです。

――本日はありがとうございました。

(2016年10月29日)

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『日本近代の歴史』刊行記念対談

世界史の中の近代日本
―内政と外交のはざま―

 
源川真希 みながわ まさき
1961年、愛知県生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得
現在、首都大学東京都市教養学部教授
主要著書=『近衛新体制の思想と政治』、
『東京市政』など多数
大日方純夫 おびなた すみお
1950年、長野県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了
現在、早稲田大学文学学術院教授
主要著書=『近代日本の警察と地域社会』、『維新政府の密偵たち』など多数

 

本シリーズの特色

――本日は、9月より刊行が開始されます新シリーズ『日本近代の歴史』の企画編集委員である大日方純夫・源川真希両先生にお越しいただきました。本シリーズの特色や見どころについてお話しいただきたいと思います。

 源川 本書の特徴はと言うと、近代日本の85年ほど、明治維新から1950年代ぐらいまでの時代を6つに分け、国際環境を留意しながら政治史を中心に描いたということです。
 大日方 そうですね。やはり時代区分ですね。

 源川 国際環境と、それに対応する内政のあり方について総合的に把握するという考えのもとで執筆の打ち合わせをしました。6つの時代の分け方は、第1巻が「王政復古」から明治6年政変、第2巻は岩倉使節団を起点として日清戦争まで、第3巻で日清戦後経営から明治の終焉、アジアの情勢としては辛亥革命、第4巻は大正政変から、そして大正末期の第2次加藤高明内閣ぐらいですね。第5巻では憲政常道の定着ということで、第2次加藤内閣が若槻内閣に移行する時期から、日中戦争前の林銑十郎内閣までの時期を扱ったということです。
 そして第6巻では日中戦争の前夜から戦後、サンフランシスコ講和から1955年体制の形成までを扱いました。1955年体制の形成にふれたのは、戦前の政党政治が崩壊して、戦後、総力戦体制になりますが、政党が復活していくさまも描きたかったからです。
 このように6つの時期に分けてそれぞれ執筆をお願いしたわけです。通史を書くというのは非常に難しい。1巻分で400字×350枚程度の規模で概括的な叙述をして、いろいろな研究に目配りをしながら研究状況を説明しなければいけない。やってみて分かったのは、研究状況の把握とか大きな歴史像の理解が難しくなっていて、近現代史研究者でも政治、外交、経済、社会など、個別の研究状況を概括していくのはすごく大変だということです。

 大日方 政治史の基本的な流れを押さえながら記述するというのが一つのねらいです。その場合、通史というのは何なのかが、難しい問題です。単純な誤解があって、年表と同じじゃないかというふうに勘違いする人もいます。しかし、時間軸で並べていけば歴史の流れが見えてくるというのではなく、時代の構造を捉えながら展開させていかなければならない。ですから今回で言うと、巻別けをどこでどう切っていくのか、巻の中でどう編成するのかというあたりが一番手腕が問われるところだと思います。
 やはりそれぞれの巻とも時代の捉え方という点では、非常に特徴的で、ある種、個性的です。各巻、時代像が非常に鮮明になるような、仕上がりになっているという気がします。
 しかし、他方で、今回のシリーズは、個人の研究そのままのオリジナルな作品というわけではなく、基本的事実を踏まえながら、かつ先行研究をいろいろ組み込んで時代像を描こうとしているところが重要です。ですから、全体としても非常に安定的に展開できているので、安心して読んでいただけると思います。

――特徴でいきますと、1、2、3巻の区分というのは比較的スタンダードだと思います。ただ後半の4巻と5巻の分け目を工夫して、1925年と36年で分けたねらいについて聞かせてください。

 源川 これは執筆者の方の顔もチラチラと思い浮かべながらというのもありましたけれども、やっぱり護憲三派内閣ができて、憲政常道が定着していく過程というのは一つの区切りにはなるだろうと思いました。
 描き方としては、第4巻の櫻井さんに大正時代というくくりでまとめていただき、その終点としての護憲三派内閣から普通選挙、治安維持法という位置づけになると思います。
 河島さんには憲政常道の時代から、37年の日中戦争直前ぐらいまでを、1つのまとまりとして描いていただけたと思います。
政党政治の展開と崩壊から日中戦争開始前の時代的な総括が、第5巻ではできたのではないかと思います。

 大日方 それは基本的には政党政治という話と、国際的には協調主義がメインになっている時期としてイメージされてくるということですね。

 源川 そうですね。

 大日方 それが破たんしていく過程としてですね。

 源川 そうです。

 大日方 ですから15年戦争と一括しないで、振り分けてみたということですね。

 源川 微妙なのは、これまでの15年戦争論や、あとで述べますがデモクラシーからファシズムへという枠組を意識しています。河島さんの巻のタイトルは『戦争とファシズムの時代へ』です。とはいえ、この時代の複雑な様相を描いてもらえたのではないかと思います。

世界史との関わり

 源川 次に世界史との関係についてふれます。世界史の展開と、アジア情勢の中での日本の位置を踏まえながら内政を書いていくということです。これは各巻それぞれで意識されていると思います。奥田さんの第1巻『維新と開化』については、『日本近世の歴史 第6巻 明治維新』(小社刊)と重なる時代を扱っています。

 大日方 そうですね。政局史という意味では、重なっています。

 源川 私のように近代の後ろの方を勉強している者は近代国家建設について、立憲制の形成、明治憲法の制定ぐらいまでざっと見てしまうんです。しかし第一巻からは明治6年ぐらいまでの時期に、いかに近代国家をつくるさまざまな変革といったものが進んでいるのかということがわかります。ものすごく苦しみながら国制が変わっていく。

 大日方 そうですね。痛みを伴います。

 源川 第1巻は幕藩体制から新しいものに変えようとしていく様子が生き生きと描かれていたと思います。
 そして大日方さんの第2巻で、あらためて近世における国際関係の「四つの口」の概括と、それが近代にどうなっていくのかという展開になっています。この辺はいかがですか。

 大日方 世界史のなかでという場合、それこそが日本近代史の特徴だというふうに思うんです。「鎖国」と言えるかどうかは別としても、少なくとも前近代は東アジアの中で世界が形成されている。しかし、基本的に「開国」後の近代は世界史抜きには語れない時代に入ってくるので、それを入れない近代史はあり得ないと思います。その点では世界史とのかかわりが必然的なものだということです。
それから、とくに高校生、大学生の読者をイメージした場合、日本史、東洋史、西洋史という区分ではまずいと思います。アジア史と西洋史、あるいは日本史と西洋史を統合していかなければならない。そこをうまく書き分けることが非常に重要な課題です。
 その内容、評価は別として、文部科学省
は2020年度以後に実施される学習指導要領で、高校に「歴史総合」という新しい必修科目を置こうとしています。歴史というものをそもそも単純に世界史と日本史には区分はできない、というところがやはり大きなポイントになってくると思います。

―― 「歴史総合」というのは日本史と世界史の総合ですか。

 大日方 そうです。日本史と世界史とに区分しないで、まず高校に入ったらそれを基礎としてやる。中央教育審議会の案では、その上に日本史に関する探究科目と世界史に関する探究科目という2つの選択科目を置くことになっています。その点では、近現代重視、かつ世界史、特に東アジアを視野に入れないと語れないという、そういう流れができてくると思います。日本学術会議も2014年にそういう方向で、「歴史基礎」という形で提案したものですから、日本史と世界史の統合ということが大きな流れになっているのだと思います。
 世界史という場合、さっきも触れたのですが、基本的に日本の独自な位置として、西洋列強とどう関係するのかということと、アジアの近隣とどう関係するのかということの2つが大きなポイントになるわけです。「脱亜入欧」ということが言われたり、アジアに対する侵略という問題が言われたりしますが、それを各時期ごとに、押さえながら議論を展開していくことが非常に重要だと思います。
 その点で、第2巻から後の時期は、そういう両にらみの展開が重要な課題になると思います。

―― 最近、日露戦争までの日本の外交戦術を評価すべきだという外国の研究者がいます。近代史の中では、すでに日清戦争の時点から植民地戦争の側面があるわけです。評価するのが難しいと思いますが、学界としてはどうですか。

 大日方 かなり論争的テーマになるのは、日清戦争までのプロセスをどう見るのかということです。これについては、日本の近代史研究者の中でも対立的な見解があります。つまり必然的に日清戦争に至り、日本は中国を侵略し、日露戦争から15年戦争に至るという、こういう流れで、ある種一直線に見る見方と、他方で、いや、それは政治過程の展開の中から出てきて、それが日清戦争で決定付けられたのだという議論があります。私は今回、後者の立場に立って基本的には書いていますが、「結果、うまくいった」という言い方は、大国化したという立場に立つからそう言えるのです。しかし裏を返せば、今回は特に第3巻あたりで「帝国」という問題が入ってくるので、そこのところが大きな分かれ目だと思います。つまり主権回復という話だけではなくて、それがアジアに対する進出・侵略の展開と裏腹の関係になる。ここのところを問わなければならないと思います。
 こうしたことの結果として、戦争と侵略、植民地化ということが、本格的に展開していくのです。それを見ないと、朝鮮支配とか、あるいはその後の中国侵略というのは見えてこないと思います。
 近年は国際秩序とか外交史というのはかなり蓄積がされてきていますが、そういう外交史や国際関係史の蓄積を、政治史とどうリンクさせていくのかというのが大きなテーマになります。

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 政治史研究の論点

 源川 このシリーズは政治史を軸として近代を描いていくという共通した書き方があります。政治史研究というのは方法が確立していて、ある意味では史料があれば新しいことが書ける。とりわけ個々の政局を明らかにしていく研究は、いろいろな形で発表されているわけです。

――そうですね。

 源川 そうした研究の成果を蓄積していくことは重要なのですが、ではその時代を全体としてどう考えるか、どう見ていくかということを考える必要があると思います。論文を書くさいには、その時代の支配的な政治史の枠組みに寄り添って書いていると思うんですけど、あまりふだんはそういうことを意識できないような状況があるのではないかと思うんです。しかし政治史をどう見るかという枠組みについて考えることは大事だと思います。政局をめぐる個々の事実についてはどんどん明らかになってきますけど、全体として政治史をどう見るかという枠組みはすごくゆっくり変わっています。
 その点で、政治史、とりわけ近代の前半ということでいくつか論点をあげたい。1つは自由民権から帝国憲法発布、そして初期議会ぐらいまでの政治史は、これは大日方さんの専門で、30年前、つまり民権運動の研究がすごく隆盛を見せていたころと、現在の民権研究というのがどういうふうに変わってきたのかということについて、お考えをお聞きできればと思います。

 大日方 これは結構、頭の痛い問題です(笑)。自由民権運動と明治国家の対抗関係を描いてきたのが、1980年代くらいまで、「民権100年」記念のあたりまでの研究です。戦後歴史学の展開の中では、自由民権運動の時期というのは、明治政府は抑圧的で、それに対して民権運動がたたかったという構造でとらえてきたわけです。それは現在も、民権運動研究の流れとしては引き継がれているのですが、他方で1980年代あたりから芽生え、90年代に専らになったのが「国民国家」という観点でこの時期を捉えようとする議論です。民権運動も明治政府側も基本的に「国民国家」づくりという点で共通しており、その結果、「国民」は体制化していくといったのです。ある言い方からすると、自由民権運動があったからこそ明治政府は安定的な基盤をつくることができ、それをベースに対外膨張へと展開できたのだという話になります。
 「国民国家」論には、「国家」を「国民」との関係から議論していくという特徴があります。今回はこれをもう1回考え直そうということで、「国民国家」という言葉はあえて使わず、「主権国家」という観点からとらえかえしてみようとしました。国民と国家という1国単位の枠組ではなく、世界に配置されている国家・地域は、国際法的なレベルで議論した場合には、同じ国家・地域ではなくて重層的な、3重の構造になっている。そうすると少なくとも主権とは何なのかが問題となります。対外的主権の問題と対内的主権の問題をどう見るのかということを議論しないと、国家は国家として存在できないのです。
 それから単純に国民と言っていいのかどうかという問題もあります。即明治前期から国民国家だというのはたぶん誤りですし、天皇制の問題もあります。国民は果たして国民たり得たのかという議論が残ります。

――むつかしい問題ですね。

 大日方 そこで、もう1回そこを仕切り直ししようと考えたのです。自由民権運動の時期の政治史的な再構築という点で、外からすれば外交、対外関係、中では主権という問題がどう議論されていくのか。条約改正等をめぐる問題とか、対欧米関係として展開していく過程と、それから主権回復のプロセスが東アジアにおける主権はく奪の過程と連動するという問題とを統一的に捉えていったときに、「主権国家」ないし「国民国家」には2重性があるわけです。ヨーロッパもそうで、自国で主権を確立するけれども他者を抑圧するという仕組みとなります。イギリスやフランスは自由の祖国ですが、逆に言えば帝国主義の祖国でもあるという構造になるので、この2面性を見る必要があります。その意味で、日本が特殊ではない。こうした事態を単純化しないで見ていったほうがいいというのが1つです。
 他方で、国内的に言うと、主権を誰が握るのか。天皇ないし官僚、藩閥勢力と、政党ないし国民という関係の中で、主権の担い手をめぐる対抗があることを抜きにしてしまうと、基本的に国家をめぐる議論たり得なくなるわけです。国民化されただけでは国家たり得ないので、そこを明らかにしたい。
 源川さんは第6巻のプロローグで、通史の書き方には時代が反映しているとふれています。ちょうど去年の5月ぐらいにこの巻を書いていて、その時期からあらためて考えてみると、現在、われわれがどういう時代状況の中でこうした問題を考えているのかということを問いかける必要があると思います。現代における主権の問題を、国内的な主権の問題を含めながら、あらためて近代を見直してみたいと考えています。そういう問いかけをしてみたいという思いがあって、いったん執筆した後で原稿にいろいろ手を入れてきました。
 その点で今、政治を身近なものにする必要がある。一時期ずっと政治史が嫌われて、社会史とか文化史のほうに関心が流れました。しかし、そこであらためて政治史とは何なのかということでこれを再構築し、政治を身近なものに感じることができるような、そういう試みが必要だと考えています。
 第1巻の奥田さんがお書きになったところは、まさに問いかけとして、近世の閉鎖的な政治システムがどう変わっていくのかという、国家意思の決定のされ方を問題にしているわけです。ですから近世的な意思決定システムという、非常に閉鎖的な、将軍、譜代・門閥の政治のあり方がいかに変えられていくのかという点で、近代国家、近代日本の政治運営のシステムがどう展開していくのかという、初発の動向が解明されています。
 第1巻ではその産みの苦しみというか、当局者側の諸構想が出てきて、さまざまなことが展開していく。それが第2巻のところで、実際に当局側の有司専制体制と、自由民権運動が掲げる議会制、立憲制というものが議論されながら、双方がかなりからまって展開をしていく。そして第3巻の時期に実際の運営システムの中でこれがどう機能していくのかという流れになります。基本的には政治権力と国民の同意調達システムがどう機能していくのかという点での政党や議会制、あるいは内閣ということをもう1回整理し直す作業になるのではないかという気がします。つまり立憲主義および政治運営システムの再検討というようなことになるのかな思います。

 源川 そういう意味で言うと、明治中後期から大正期の政治史も非常に研究の蓄積が多くなっています。飯塚さんと櫻井さんはその分野の政治史の研究をリードされている方ですが、とりわけ中央の政局という点だけではなくて地方政治に踏み込んで、政治構造というのを描く。このお2人は政局や外交だけではなくて、政治の基底のようなものを研究されている方なので、そういう点での研究成果というのが非常に生きている。その意味で、政治を表面だけではなくて構造的に捉えていくという、われわれが考えているこのシリーズのコンセプトにとっても、非常に大きな意味があったのではないかと思っています。

 大日方 構造的に政治を捉えた場合、やはり中央政治の政局史ではなくて、地方、地域の分野が見えないと、描けないですね。

 源川 櫻井さんは東京の研究をされて、外交もできるし、それを踏まえた上で政治史を書く。その点でこれまでの研究の成果の部分を生かしていただいているような形です。
 飯塚さんは、議会制の発足から対外硬運動、対外硬派の運動の地域的な基盤について実証的に研究されています。そういう外に向かっていくようなナショナリズムの力を地方から考えるという視点によって、外交や中央政治を書く場合も、非常に奥の深い議論をしていただけたのではないかと思います。

 大日方 これはおもしろい。櫻井さんは東京で、飯塚さんは京都でと、足場はそれぞれ東西に置きながらということになる。都市民衆や商工業者の利害が政治にどのように反映されているかということを対象にしている。かつ政治、政党等についてそれぞれ研究されているから、そういう点では非常に構造的ですね。

 源川 戻りますけど、外交史、戦争史については、さきほどふれた世界史のなかの日本近代という視点が重要ですが、戦争史の最近の研究成果をふまえて書いていただいているということが、このシリーズの非常に大きなメリットだと思っています。日清戦争、あるいは台湾征服戦争、日露戦争、そして植民地支配ですよね。それぞれ専門性を生かして最近の成果とご自分の研究の内容をうまく反映させて書いている。ところで、外交史、戦争史、特に日清戦争からその後、戦争史を通史的に叙述するというのは教科書を書かれるときに非常に苦労されると思うのですが、そのあたり、大日方さんに教科書執筆の苦労を聞かせていただけますか。

 大日方 結局、戦局、戦闘の歴史になってしまうと、これは悪く言えばオタク的な形になって、ある種、勝ったか負けたかとか、どうやってやったかという話になってしまう。ですから教科書ではあまりそういうことはやらないのです。基本的に、なぜ戦争を起こしたのか、誰が起こしたかというような戦争の要因とか、背景とか、特に近年ですと戦争指導者だけではなくて民衆とか相手側の視点などを組み込みながら見ようということです。ですから、その点で日清戦争などの最近の研究では、かなり社会史的な視点を含めて展開されていますし、日露戦争も民衆視点からどう見るのかということで、単純に戦場における戦闘ではない形で展開されているというのが大きな特徴だと思います。
 その結果、教科書でも戦争の始めと、戦争が終わった後どうなるかにかなりウェイトが置かれます。戦争中については簡単に戦局を押さえながら、それに対して兵士とか住民がどう関与していったのかということが比較的記述の中心になります。今回のシリーズもそういう形で対応できるのかなという気がします。
 ただ、ここでも厄介なのは、日本史というふうに一応区切るとすると、相手側の記述をどこまで入れるのかということが結構難しい問題になります。これは私が担当したところで言っても、いろいろな軍事衝突事件があって、それをめぐって日本史ないしは日本近代史として描く部分と、朝鮮とか中国の動向をどう連動させていくかというのは、分量や叙述方法の問題としては非常に悩ましいところです。でもそれを入れないと、実際は戦争の構図が見えてこないとも言えます。この点で近年の中国史や朝鮮史の成果を参酌して入れていくことは不可欠だと思います。

 源川 辛亥革命後の日本の中国に対するさまざまな外交的な工作などについては櫻井さんの専門領域です。ですから大正期の日中関係についても、これまでの通史以上に描いていただいているような気がします。

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  昭和をどう位置づけるか

 源川 その流れで昭和期をどういうふうに見ていくかということになります。「大正デモクラシーからファシズムへ」というのはこれまで使われてきた枠組みです。最近いろいろな通史を読む機会がありますけれども、あまり強く意識されてないんですね。でもまだ教科書ではかなり使われています。だから歴史を認識する枠組みとしてはまだまだ通説的な位置付けがあると思います。
 ただ、この第4巻~6巻に関わるのですが、表面上はあまりそれを意識していないようです。大正デモクラシーからファシズムへという直線的な書き方をしていないと思います。

 大日方 そうですね。

 源川 そういう書き方はしていませんけど、例えば第四巻の櫻井さんもやはり日比谷焼打事件から第1次護憲運動の頃の日本の政治は、一方では立憲主義を求めながらも対外強硬的であったが、第1次世界大戦後には協調的な傾向が出てくるという変化を指摘しています。
 そういう大正時代のデモクラシーの性格については、第4巻でも議論されています。そしてその後の第5巻、第6巻にかけては明確に大正デモクラシーからファシズムへとは言ってないのですけど、実はそれなりに意識しています。それは1920年代後半から40年代をどう見るかということに関わります。
 河島さんは冒頭のところで、第5巻の時代を「現代国家化」の時期だと捉えています。現代国家というのは、言い換えると福祉国家とか、欧米的なケインズ主義的国家です。議会制民主主義があって社会政策を行う。古典的自由主義ではなくて社会に介入する国家をこの場合に、現代国家と言います。あるいは労働者の保護を政策化するような、20世紀型の国家というのがつくられていく。このように一般的には理解されている。
 第5巻では、日本にもある程度そうした政策構想があって、おそらく浜口内閣はそういう意味での1つの担い手として位置づけられているのかなと思います。浜口内閣の時期には労働政策とか社会政策が提起され、あるいは女性の公民権も衆議院だけは通りますので、女性の政治参加なども含めて現代国家化を進めようとした過程として、おそらく理解していると思います。それはある意味では大正デモクラシーの流れの中に位置付くわけです。
 なおかつ私の担当した第六巻のほうでも、その問題意識をある程度引き継いでいます。ですから第5巻は『戦争とファシズムの時代へ』となっていますけれども、歴史観としては軍部が出てきて着々とファッショ化を進めていくという歴史観ではないのです。国家のあり方については現代国家化が目指されていくわけですけど、しかし、そのいっぽう軍部が中国侵略を始めていく。それに対して、現代国家化をしつつも、軍部に抑えが利かない。そういう点での弱点・限界性みたいなものが指摘できるのかなと。
 それから理解するのがむつかしいのは軍部の中にも社会政策を重視するグループがいること。陸軍パンフレットなどというのは、いわゆる広義国防を掲げているので、それを求める軍部と、さっき言った現代国家化を目指すような構想というのが、ある意味ではリンクしてしまうようなところもあります。おそらくそれが1930年代の日本の政治史を考える上では非常に重要な点で、これまでの研究で議論されてきました。それは私も強調しているところです。だから大正デモクラシーからファシズムへと明確に言ってないんですけど、その移り変わりのロジックをかなり強く意識して書いたつもりです。
 言い方としては、福祉国家化のような動き、つまり現代国家化を目指していく政策構想があったのですが、対外侵略を行う軍部が一部、国防のための社会政策なるものを主張しています。それと現代国家化の動きがある部分くっついてしまうようなところが、1930年代の政治史の特徴なのだと捉えています。
 この辺についてはおそらく河島さんも私もかなり共通した問題意識を持っています。

―― 一般に現代政治を語る上で、日本の政治は官僚政治だというような言い方もされますが、いまおっしゃった現代化というところで、主導権を握っているのは政治家なのか、官僚なのかどう考えてらっしゃいますか?

 源川 そこはなかなか難しくて、河島さんの巻で述べられているように、確かにロンドン海軍軍縮条約の締結の時の浜口のリーダーシップというのは、枢密院も押さえて調印するという点で意味があったと思うんです。その後、撃たれてしまうわけですけど。官僚のほうは、その政党政治の時期にかなり劣勢の位置にあったと言われていますが、彼らは彼らでいろいろな政策構想を持っています。官僚のほうも意外に、政党政治はそれなりに必要だと思っているんです。無産政党のある程度の進出と政党政治というのが日本にあってもいいのではないかと考える人々が一定数いて、政党政治を弾圧するようなイメージでは語れない。
 そして官僚の役割、特に新官僚と言われる人々も、1933年以降変わっていく。政党にかなり抑圧的になっていきます。そのような官僚の姿が第5巻で示されているのかなと思います。

  総力戦体制とは何か

―― 最後ですが、第6巻が対象とする総力戦体制についてふれていきましょう。
 大日方 要するに福祉国家、つまり国家的な政策として介入していくという話ですね。自由主義経済ではなく、ある種、懸命な管理をしないとまずいということです。それが後の総力戦体制や戦後にどういう位置になっていくのでしょうか。河島さんの提起された「現代国家化」は、そこのところをいわば戦後のある種のモデル、ある種の類似性として捉えようということでしょうか。その関係はどんなふうになるのですか。

 源川 そこは難しくて。当たり前の話なんですけど、1930年代前半までを1つにまとめて捉えたとすると、総力戦体制につながる部分も当然あります。それはどういうことかというと、さっき言った社会政策と広義国防の連動というのはまさに38年以降出てくる。国家総動員法とか、厚生省の設置や、国民健康保険をつくろうという構想があるんですけど、おそらく社会政策についていえば、30年代前半の現代国家の文脈で捉えることができます。
 それが戦争の論理の中に引っ張られていく側面が必ずある。だから総力戦体制論の枠組みというのは、総力戦になって変わったということを切り取って見るべきではないと僕は思うんです。つまり総力戦の時代だけではなく、前とのつながりというのを十分認識しなければいけないというのが僕の考え方です。
 歴史なので当たり前ですけど、30年代前半での動きというのを十分踏まえた上で、それがどういうふうに総力戦に持っていかれるのかという発想のほうが僕はいいのではないかと思う。ただ、総力戦体制に引っ張られて、ゼロか100かではなくて、やっぱり総力戦に行かないような現代化の構想というのはあったと思います。基本的には、さっき言った軍部の広義国防の論理によって戦争に持っていかれる。ただ、もしかしたら持っていかれないで済んだかもしれないという発想も必要なのかなと思っています。それは、おそらく戦争が終わった後に生かされてくる。
 だから占領軍が行おうとした政策というのは、もちろん個別的には総力戦体制期に原型が作られていたものもありますけど、構想としてはその前からあって、戦争とは無関係に存在している。いわば30年代前半の現代国家的な政策、実現しないまま残っていたものを、占領軍が一気に進めたという側面もあるのではないかと思います。その意味では30年代前半の構想は総力戦体制に連続する部分と、それ以後にGHQの占領政策の中で新たな形で展開していくものがあったのではないかということが、僕が最後に言いたかったことです。

 大日方 思いつき的に言うと、櫻井さんが扱っている時期の政治のあり方とか、社会の編成のされ方とか、現代的な社会状況みたいなものが、ある種、総力戦の戦時体制をかいくぐる中で、戦後の基盤をつくっていくような側面もあると。

 源川 そうですね。松尾尊兊さんの問題意識も大正デモクラシーの成果というのが戦後の民主主義につながっていくというものです。

 大日方 そうそう、ある意味古典的な。

 源川 それは僕も基本的に間違いではないというふうに思っていて、河島さんもそう考えていると思います。
 ただ、僕たちが強調しているのは、おそらく大正デモクラシーがつぶれた後の数年間というのは非常に大事で、つまり1930年ぐらいから37年の日中戦争の始まる頃までの時期というのは、おそらく従来の大正デモクラシー論では大正デモクラシーとは言われてないと思うんです。だからその部分をどう位置付け直すのかというのが、今回、書きたかった1つの新しい点なのかなと思っています。

 大日方 でもいずれにせよ、総力戦体制だと能動性を発揮しないと展開できないから、ある種、政治参加というのは相応に疑似的には保障します。よく言われる市川房枝など、女性の政治参加とか、戦時中の女性の労働力動員に関する論争もある。客観的にはそういう状況の中で進んだ社会的進出が、状況が転換する中で基盤になるということは、十分あり得ると思うんです。

 源川 そこはかなり連続した部分もあると思います。その意味でも、総力戦体制論というのは総力戦によってという言い方になりますよね。だから戦争が起動要因になるということですけど、むしろ戦争がなければもうちょっと違う形で、もっと早く実現したかもしれない。

 大日方 単純化すると、櫻井さん、河島さんの流れの延長上に展開してくる。
 源川 それがうまくいけば、総力戦を使わずにある程度、構想が実現した可能性はないわけではないと言えるでしょう。

 大日方 ある種、逆接的というか(笑)。

 源川 そういうふうに考えてみたらどうであろうと。そう考えることで大正デモクラシー論の問題意識を受け継ぎますけれども、占領政策の意義を正当に評価することになると思います。もちろん占領政策は民主化に役立ったんですけど、じゃあその前の日本の社会の持っていたポテンシャルというのは何か。それをもうちょっと見ていく必要があるだろうと思っています。

 大日方 つまり外在的な民主化、ないしは政治構造が追認されたわけではなくて、そうした基盤とか前提があってということですね。

 源川 まあ、そうです。そこが大正デモクラシー論とそんなに議論としては変わらない。

 大日方 松尾さんと言い方は違うけれど、でもある種受け継いでいる部分はあると思います。単純な総力戦体制論とはまた違う部分が出てくることになるのではないでしょうか。

 源川 そうですね。

――本日は、かなり内容に深く踏み込んだお話しを聞けたと思います。ありがとうございました。

 (2016年7月29日)

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