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お知らせ(第5回古代歴史文化賞受賞図書エッセイ)

小畑弘己著『タネをまく縄文人』が第5回古代歴史文化賞 大賞を受賞!
エッセイは『本郷』121号(2016.1)より再録しました。

小畑弘己

ムシと考古学

―圧痕家屋害虫学事始め―
 
エッセイイラスト
  
 クワガタやカブトムシが好きだという人もいるが、たいていムシは嫌いな人が多い。昆虫の種類は現在一〇〇万種以上が知られていて、推定種数は三〇〇万~五〇〇万といわれる。個体数も多く、ある熱帯地域では、アリだけの生物量で陸上の脊椎動物の生物量をはるかに凌駕するという。将来的な食料不足対策として、ムシ食が真剣に検討されているのもうなずける。

 彼らが地球上に現れたのは約四億年前で、四〇〇万年前に出現した人間よりもかなり古い時代から栄えていた動物である。私たち考古学者が研究対象とする遺跡は、およそ数万年前から最近までの間に人間によって築かれた生活の址であり、そこからは昆虫たちの遺骸が人との係りを示す状態で発見される。
 
 ムシは犯罪捜査でも重要な役割を果たしている。海外の人気ドラマ「ボーンズ」などでおなじみの科学捜査には昆虫や植物が事件を解く鍵としてしばしば登場する。法医昆虫学(Forensic Entomology)の研究者は、事件現場で遺体に群がるハエやウジ虫などの昆虫を生きた証人として採取する。中でも重要な役割を果たすのはクロバエである。彼らは遺体を一〇分以内に発見し、そこに卵を産み付ける。これはハエが脚先の「じょく盤」という器官に無数に生えた毛をセンサーにして、臭いや味を察知することができるためである。昆虫が犯人探しに役立った最も古い例も、中国宋代の役人宗慈による『洗冤録』(一二五五年)にある、村中の人に鎌を持参させ、ハエが群がった鎌の持ち主を犯人と特定したという事例である。また、法医学的捜査に昆虫が用いられた最初の記録(一八五五年)としては、パリ郊外の改築工事現場から発見されたミイラ化した幼児の遺体から得られたハエ(ニクバエ科)やノミの遺体などの分析から、幼児が死亡した年が一八五五年よりずっと前の一八四八年であると推定され、この年にその家に住んでいた人物が逮捕されたという事例がある。

 このような犯罪解決を可能にしたのは、昆虫の種ごとの生態による。犯罪現場においては、遺体の死亡推定時刻・原因・場所などを推定するために、遺体に群がる昆虫の生活環とその中での生育速度、腐敗の進行につれて遺体上に現れるさまざまな種の交替のパターンが使用される。たとえば、遺体の上に最初に登場するのはクロバエで、その後は、他種のハエなどの腐食性・食糞性種から、彼らや遺体を食べる捕食性・腐肉性種の甲虫、そしてその甲虫に寄生するハチやガへと昆虫の種類が変遷する。昆虫組成に表れた時間経過が死亡時刻推定に役立つのである。

 考古学研究においてもハエの種ごとの特性は、殯(遺体を埋葬するまでの期間、別の場所において遺体を管理する行為)の場所や期間を推定する際に使用された。愛媛県葉佐池古墳の遺体についたハエの囲蛹殻はニクバエ属とヒメクロバエ属のハエのもので、それらの生態から、殯は石室内でなく、明るい他所で数日間行われたと推定された。
 
 ハエにみるように、昆虫の繁殖に必要な環境や彼らが要求する食物は種ごとに決まっている。また、彼らは変温動物であるため、ほとんどが気温に鋭敏に反応する。昆虫は気候や環境の変化ストレスに直面すると、遺伝的な適応よりむしろ、適当な場所に移動して食物選択を広げるという方法で適応を果たすため、環境史復元にきわめて有効な指標となりうる。しかも、同定のしやすい個性的な形態をもち、 種類と個体数が多く、棲息域が至る所にある点なども研究資料として好都合である。

 このような昆虫のもつ特性に基づき、害虫の類もそれぞれが加害する対象物や生活域はそれぞれに異なっている。よって、遺跡の中から発見される害虫の種類と構成から当時の人々の衣食住に関する情報を得ることが可能となるのである。
 
 最近、奈良県秋津遺跡の土壌中から完全な形でクワガタが発見され、注目を集めた。低湿地遺跡の堆積物を発掘すると、タマムシやコガネムシなどの光り輝く昆虫の趐を見つけることがよくある。我が国の考古遺跡から出土するムシについては、森勇一氏の『ムシの考古学』(雄山閣、二〇一二年)に詳しい。ヨーロッパ、とくに英国においては、この考古昆虫学Archaeoentomology)の研究が盛んで、貯蔵穀物害虫から農耕の伝播やローマ軍の進軍の足跡を探ったり、衛生害虫などの組成から中世都市の人々の生活や衛生状態を探るなどの研究が盛んに行われている。

 このような中、最近、縄文土器を中心として、土器製作時に押し付けられたり、土器粘土に練り込まれたりした植物のタネや昆虫遺体などが多数発見され始めた。一見なにもないような土器の表面を意識的に観察すると、小さな穴状にタネやムシのスタンプがあることに気付く。最古の穀物探しや時代や地域ごとの穀物構成の違いなどを研究する上で、この土器表面の圧痕をシリコーンゴムなどの印象材で型取りし、種類を特定するという研究手法(レプリカ法)が効力を発揮している。これまでタネやムシは、長年、低湿地遺跡などの嫌気性土壌や炭化物の混じる焼土などから検出されたものが主たる研究対象とされてきた。しかし、ダイズやアズキが多数存在し、それらが縄文人たちによって栽培されたことを明らかにしたのはこの土器圧痕であった。

 圧痕として検出されるタネやムシは、タネの場合、穀物やマメ類などの栽培・有用植物の種実が、そしてムシの場合、家屋に住む害虫の類が高い比率で検出されるという特徴がある。これは土器が家の中(屋内)で製作された証拠でもある。
 
 この圧痕ムシの代表格がコクゾウムシSitophilus zeamaisである。コクゾウムシはオサゾウムシ科の甲虫で、ヒマラヤの麓に起源し、イネやムギ類などの穀物栽培の拡散とともに生活圏を広げた世界三大貯穀害虫の一種である。この「米喰い虫」が縄文時代の遺跡から土器圧痕として多数発見され、最も古いものは種子島の一万年前の遺跡から検出されている。これはイネとはまったく関係のない時期や地域である。ヨーロッパにおいても姉妹種のムギ類を加害するグラナリアコクゾウムシSitophilus granariusが約七〇〇〇年前のアナトリアやイスラエルの遺跡から発見されているが、我が国のコクゾウムシはそれを三〇〇〇年も遡る世界最古の貯蔵食物害虫なのである。このコクゾウムシは現在、日本全国の五〇箇所ほどの遺跡から三五〇余点が土器圧痕として発見され、青森県三内丸山遺跡では生体化石も検出されている。驚くべきことに、昆虫圧痕の九割がコクゾウムシなのである。

 縄文コクゾウムシの存在は、長期にわたる定住的な生活とドングリ・クリなどの乾燥貯蔵食物の存在を意味し、その全国的な拡散には、人の関与があったのではないかと推定している。筆者は、土器粘土中に家屋害虫たちの痕跡を探す、これを「圧痕家屋害虫学」と称し、縄文人たちのより生き生きとした住環境の復元を目指している。

 このような不思議な発見がまだ考古学の世界にはある。拙著(『タネをまく縄文人』)では「不思議」に直面した筆者の興奮と感動を皆様にお伝えしたい。
(おばた ひろき・東北アジア先史学)


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海野 聡著『古建築を復元する』が第5回古代歴史文化賞 優秀作品賞を受賞!
エッセイは『本郷』129号(2017.5)より再録しました。

海野 聡

復元建物の見かたと「復元学」のすすめ
 
海野先生エッセイイラスト 
  
 窓にはライトアップされた平城宮第1次大極殿が堂々たる姿で闇夜に浮かんでいる。私の職場、奈良文化財研究所は平城宮にあり、私にとって復元建物は身近にある。こうした縁で、このたび「歴史文化ライブラリー」シリーズとして、拙著『古建築を復元する―過去と現在の架け橋―』(以下、本書という)を上梓することとなった。この復元建物について、少しお話をしたい。

 平城京はご存知のように、藤原京から和銅三年(七一〇)に遷都された古代の都で、奈良盆地の北方にあり、その宮殿である平城宮は東西約1㌔、南北約1㌔と広大な敷地を占める。現在、平城宮に古代から残る宮殿の建物は一つもなく、その痕跡も地下に埋もれており、ほとんどが原っぱである。そのため、晴れた日には、東は東大寺大仏殿から春日山、南は薬師寺の塔まで見通せ、まさに奈良時代を想い起こさせる光景である。逆に言うと、このくらいしか奈良の長い歴史を感じることはできないのである。

 私がこの平城宮跡を近鉄電車の車窓から見た時の第一印象は、まさに広大な空き地であった。その中に赤くそびえ立つ朱雀門を目にして、初めてここが歴史的な地であると認識した。私と復元建物の出会いは、ここから始まったと言っても過言ではない。

 その後も各地の遺跡を訪れては復元建物を目にし、何となく在りし日の姿のイメージはできたのであるが、それに対する違和感も覚えた。例えば、吉野ケ里遺跡では、未熟であろう加工道具や技術で、あれほど巨大でキッチリとした建物を建てることができたのであろうか、といった疑問である。さらには、どのようにして復元建物は復元・設計されているのであろうか、その姿は本当に当時のものと完全に一致するのだろうかと。こうした疑問も復元建物について学び、復元のプロセスを知るにつれて氷解したのだが、私が復元建物に向き合うスタンスの原点はここにあろう。

 現実として、遺跡の現地に建てられた復元建物には抗うことのできない強さがあり、見る人の歴史のイメージの作成を後押ししてくれるとともに、この強さは危険性をもはらんでいる。すなわち、復元建物があたかも、往時の建物そのものであるかのような錯覚に陥ってしまうのである。しかし、あくまで復元建物は現代の研究者らによる産物で、確度が高いとはいえ100%の復元ではないし、それは不可能である。むろん、我々研究者は、復元建物を可能な限り往時の姿に近づけるため、日々、汗と涙を流しているが、復元建物を見る方にはこれを知っておいていただきたい。それゆえ、本書では単なる事例の紹介ではなく、こうした復元のプロセスを取り上げている。このプロセスが復元を学問として捉える「復元学」であり、ここにこそ復元建物の裏側を見る醍醐味、玄人好みとも言える復元建物や遺跡の見かたがあるのである。

 さて、遺跡と聞くと発掘、そして、考古学者を思い浮かべる方がほとんどであろう。あるいは、木簡を扱う古代史学者であろうか。遺跡と復元の建物をつなぐのに彼らの力は不可欠ではあるが、ひとえに建築史学者の力によるところが大きい。この建築史学者の視点から、復元建物の面白さを紹介したい。

 まずは復元建物ができるまでのプロセスを簡単に話そう。第一に、発掘調査によって得られた発掘遺構や出土遺物の情報収集が必要である。発掘遺構は当時の建物の痕跡であるから、これを丹念に読み解いていくことが、復元への第一歩である。これらのピースを組み合わせて、復元というパズルを解いていく。ただし、このパズル、答えが一つではないのが難点なのであるが。

 もちろん、発掘遺構は古建築の痕跡で、古い建物を復元するのであるから、古建築の知識も不可欠である。詳細は本書を手に取っていただきたいが、穴一つとっても、柱を立てるための穴と、解体するときに柱を抜き取った穴、建設用の足場のための穴など、さまざまなものがある。また、柱配置から屋根の形状がわかることがあるし、屋根の軒先から雨が落ちるから、雨落ち溝と軒先の位置は一致してくる。こうした上部構造と発掘遺構の関係を一つひとつ、つなぐことで、復元建物に近づいていく。このように復元建物は、考古学・文献史学・建築史学など、多くの知識と研究のうえに成り立っているのである。

 私自身、復元された建物に対して、多かれ少なかれ学術的な疑問を持つこともあったが、深く見ていくと、なるほどと納得することも多い。そして現在は、奈良文化財研究所で平城宮第1次大極殿院などの復元に従事し、その辛苦を味わい、復元に至る理論構築の重厚さを実感している。同時に、パズルが解けた時は、学術的な喜びとともに、古代人に近づけたような感動を覚えている。

 この平城宮第1次大極殿院の話をすると、ここは東西約180㍍、南北320㍍の区画で、築地回廊で囲まれている。その南面の中央には南門が開き、両脇には楼閣があったことが発掘調査によりわかっている。特に困難を極めたのが楼閣の復元で、この建物は、これまでの日本建築史の常識の理解を超えたものであった。そのため、これまでも複数の復元案が考えられてきた。

 楼閣の発掘遺構は特殊で、内部を礎石、外周を掘立柱とする構造、いわばハイブリッド建築である。詳細は省くが、発掘遺構から最新の研究成果に基づいて上部構造を検討していくと、屋根形状は寄棟造であろうという結論に至ったのだが、寄棟造の楼閣というような建物は日本には現存しない。それゆえ、復元考察によって導かれた構造が、にわかには受け入れがたかったのである。

 その一方で、古代の絵画資料を見ていくと、二条大路出土木簡「楼閣山水図」には寄棟造の楼閣が描かれている。中国では、敦煌莫高窟や楡林窟の壁画には、寄棟造の楼閣が描かれ、懿徳太子墓など、墳墓壁画にも確認できる。ただし、これらの中国の壁画はくすんでいる部分も多く、写真では判別が難しい。そのため、二〇一二年には現地にて後世の加筆の有無など、間近で敦煌壁画を調査した。こうした研究こそ、復元から派生した果実であろう。

 このように現存する古代建築には寄棟造の楼閣は存在しないが、絵画資料からかつては存在した可能性が高いという建築史の新世界が広がった。裏を返せば、現存する古建築は、かつて存在した数多の建物のうち、歴史の偶然の産物として残ったごく一部のものにすぎない、という事実を我々に突き付けているのである。

 現在、平城宮跡資料館と復原事業情報館に第1次大極殿院の復元模型がそれぞれ展示されているが、両者は異なる形をしている。発掘と研究の進展により、復元建物の姿が変わってきたことを示す証人である。こうした復元の背景を知る機会は少ないだろうが、いつの日か第1次大極殿院が復元された暁には、その背後にある研究の積み重ねを知ることで、違った見方もできるだろう。

 このように復元建物が過去と現在をつなぐ架け橋となることを願ってやまないが、先日もそれをうかがわせる一幕を垣間見ることができた。冬の朝、平城宮の原っぱには霜が降りるのであるが、この白銀の世界の中で朱色に輝く大極殿や朱雀門越しに白い春日山が見え、これが往時を偲ばせる光景として親しまれている。こうした風景をカメラに収めようと、多くの人が早朝の平城宮で三脚をズラリと並べている。復元に携わる者のエゴかもしれないが、この一幕を見ると、復元された建物を通じて奈良時代の光景が現代の人々の目と心に届いたような気がしてならないのである。
(うんの さとし・日本建築史)


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