安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社
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お知らせ(『日本メディア史年表』刊行記念対談(134号))

PR誌本郷第134号収録
『日本メディア史年表』刊行記念対談

メディア史の切り拓くもの

土屋礼子先生 成田龍一先生
土屋礼子 つちや れいこ
1958年、長野県に生まれ。一橋大学大学院博士課程修了、博士(社会学)
現在 早稲田大学政治経済学術院教授
主要編著書=『対日宣伝ビラが語る太平洋戦争』、『近代日本メディア人物誌:ジャーナリスト編』など多数
成田龍一 なりた りゅういち
1951年、大阪府生まれ。早稲田大学大学院文学研究科(日本史専攻)博士課程修了、文学博士
現在 日本女子大学人間社会学部教授
主要著書=『「故郷」という物語(ニューヒストリー近代日本2)』、『「戦後」はいかに語られるか』など多数

 

 本書のなりたち

 ――本日は、『日本メディア史年表』の刊行(昨年一二月)を機に、成田龍一先生と編者の土屋礼子先生にご出席いただきました。まずは本書のなりたちについて、お話しいただきたいと思います。

 土屋 最初に、この『日本メディア史年表』というものをつくりましょうという話をいただいたときに、どういうふうに考えるかということでしたが、放送史・新聞史など、各個別のメディアの歴史というものは書かれてきていますし、年表の形でまとめられているものもある。しかし、それを横断した形でのメディア史というものはあまりないのではないかという話になって、編集にとりかかりました。
 それはマスメディア、つまりテレビとか新聞だけではなく、郵便、通信、あるいは電話、ビラ、看板、レコードといったマイナーなメディアも含め、さらには最近のパソコン、テレビゲーム、SNSなどまでも含んだ、すべて人間の生活に関わるようなメディアのあり方が考えられるような年表がつくれたら面白いだろうなと思って、始めてみたということです。

 成田 なるほど。この年表は「史上初めてのもの」と土屋さんは言われています。そのことを示すように、近現代の全体を対象時期とし、取り上げるテーマ設定も非常に多岐にわたっていますね。

 土屋 どこから始めるかということも大きな問題だったのですが、最終的には一八三七年から二〇一五年ということで、一八〇年間という膨大な長さになりました。
 まず、始めるに当たっては、メディア史というのは近代史と重なっていると同時に、近代を導いてきた部分がメディアにもあるので、いきなり明治維新ではなく、その前から始めるべきだろうと考えました。特に私は新聞の研究をやっていることもあって、阿片戦争の前後ぐらいから、西欧諸国が新しい活版印刷技術をアジアに持ってきて新聞・雑誌をつくったという、その辺りから始めないといけないと思いました。
 そこにもう一つのテーマがあるのです。本の題名は『日本メディア史年表』となっていますが、日本を中心とした、なるべくアジアの広がりを展望できる年表をつくりたいと思ったのです。中身を読んでいただくと、九割以上日本のメディアの話なので、「日本メディア史年表」ということで実体はそのとおりなのですが、気持ちとしては、例えば、日本人が海外に出ていった地域とか、日本に輸入されてきたメディアとか、日本に影響を与えた、あるいはかつての大日本帝国が植民地や占領地として影響を与えた部分、その中で、メディアでつながっている部分もなるべく入れようという趣旨で編集を試みました。

 成田 私は、大学で社会学を学ぶ学生たちに接していますが、メディアは学生たちにとって非常に人気のあるテーマのひとつです。しかし、メディアと言ったとき、新聞、雑誌はもちろんのこと、放送、郵便、通信、ビラまで目を配るといわれましたが、なにをメディアとして扱うかによって、内容が変わってくる――いってみれば、領域が方法を規定するところがありますね。そして、その方法がさらに、領域の設定によって動いていきます。そうしたなか、メディアに関わる歴史的な事項を集めていこうというのは、重要かつ壮大な試みだと思います。
 「近代」と「日本」という二つの焦点を持ちながらこの年表をつくられたといわれましたが、モールスが電信機を発明した一八三七年が最初の記述事項となっています。空間を超える通信を重視し、入り口にしてのメディアの把握で、通信が近代を切り開き、日本という領域を作り上げるという認識がうかがえます。一八三七年は同時に、ダゲレオ式の写真が発明された年でもありますね。

 土屋 そうですね。

 成田 写真は、時間と空間を超えていくメディアですが、通信とともに一九世紀の中葉に出現したことは、「近代」のメディアの性格をよく示していると思います。

 テクノロジーの進化

 土屋 いま通信と写真の話が出ましたが、メディアの範囲がどこまでかというのが一つの大きな問題でした。つまり私たちがメディアだと考えているものをなぜ「メディア」という範囲で括って呼ぶかということ。それはいろいろなマスメディアの総称であるとも言えるのですが、私は人間のコミュニケーションとテクノロジーが交差する部分がメディア史研究の対象だと思っています。
 テクノロジー、すなわち技術がどの範囲を指し示すのかというのも議論になる部分ですが、コミュニケーション史の中では、ラスコーの壁画とか、文字の発明とか、何千何万年前のところまで遡るという教科書がよくあります。私はそういう考え方もあるとは思いますが、どちらかというと現代社会の直接の起源はもう少し最近の電気テクノロジー、+あるいは科学的なテクノロジーであり、それが産業化につながるテクノロジーの部分に焦点を当てるべきだろうというのが、私の根本的な考え方で、そこがメディア史の独特な領域だろうと思います。
 この近現代の約二〇〇年の間にテクノロジーがどんどん進化して、それによって人間社会の結合やグループのあり方が変わる。コミュニケーションのあり方と組織の仕方が変わってくる。そういうところが注目すべきところであるし、固有の領域ではないかと思っています。

 成田 まったく同感です。コミュニケーション論一般ではなく、メディア史と言ったときに、テクノロジーの問題を無視することはできないですね。テクノロジーを踏まえ、どのようなコミュニケーションが拓かれ、可能になったのかということを考えていくことが、メディア史を論じるときの立ち位置であるだろうと思います。
 そのときに重要なのは、テクノロジーが、今までの思考や記憶の作法、さらには世界観、人間観を変えていくということでしょう。つまり、人間と人間の関係をテクノロジー、技術が変えていく面があるということ。
 二つ目は、そうであるがゆえに、新しいテクノロジーの出現によって、あっという間に前のテクノロジーによって培われていた思考や考え方、観点のあり方が変わってしまう、いや、忘れ去られてしまうということがあると思います。例えば携帯電話一つをとってみても、携帯電話が出てきて、それが当たり前になると、それ以前にどういうやり方で電話していたであろうか、また、そもそも人に連絡をするときに、いかなる方法を取っていただろうかということが忘れられてしまう。
 そのような、いってみれば「上書き」の作用が、テクノロジーを踏まえたときに議論になってきます。となると、メディア史が持っている役割と位置と方向は、かなり重要なものとなってきます。

 土屋 いま方法の話が出たのですが、方法はすごく難しい。方法はまだ開発中だと私は思っています。

 成田 メディア史の方法の困難さ、ということですね。

 土屋 メディア史研究の方法ですね。まだ手探りでやっている。この『メディア史年表』というのはその材料であるとも思っています。つまり、メディア史全般の、テレビにも、新聞にも、SNSにも共通する方法がどれだけあるかというと、それは恐らくコミュニケーション論が論じてきた一般的な理論などを大きく飛び越えるものは、とりあえず今のところはないのではないかと私は思っています。
 方法はそれぞれ個別の分野で考えていくところからしか出てこないのではないかと思っていますが、一方で、前時代のテクノロジーが持っていたある種の組織的な力とか、コミュニケーションに関わる思考、思想を含んだある種の文化、それが陳腐化して、そして忘れ去られるという過程と、新しいものが興隆し、広まって産業化する、その過程をどうやって一般化して考え得るか、あるいは理論化できるか。そして、それを方法として分析し得るか。それはまだ確立されていないのではないかと私は思っています。

 成田 土屋さんがいわれたことは、別の言い方をすると、メディア論とメディア史の関係に関わってくると思います。冒頭に申しましたが、何をメディアと考えるかによってメディア論の内容が変わってくるなか、メディア史も定義によって、当然その姿を変えてきます。
 大きな時間的な流れで言うと、本年表は写真と通信を入り口にしていますが、一般的にはここに新聞、雑誌が加わり、さらにマスメディアとしてのラジオ、テレビが登場するという把握が一般的です。そして、その流れは、絶えずテクノロジーとセットになっています。
 しかし、他方で、人間が元来持っている身体を使ったり、直接に相対して言葉をかわしたり、表情による伝達が、テクノロジーの進歩にも抱わらず、いやそのゆえにこそ、重視されるということも日々、経験しています。つまり、うわさや流言、あるいは落書き、さらにはパロディなどのもつ効用が見逃せません。コミュニケーションにおける表街道と裏街道、というと既に評価を含んでしまいますが、双方に目配りしたようなメディア史の方法は、まだ確立できていないでしょう。
 ただ、それはそのとおりですが、しかし、先行するメディアが、新しいテクノロジーにとってかわられるということは、今までのコミュニケーションの拠点の配置や連関性が変わってくることになります。そういう「場の変わり方」の追究こそ、メディア史と言ったときの基本的な課題ではないか、と思ったりします。

 土屋 今の場の変化というところは非常に重要で、その変化を記録するというのは実はなかなか難しいわけです。例えば映画が無声映画から音声のトーキー映画に変わったときに、何の場が変わったのかというのをこの年表で表現するのはとても難しい。新しいテクノロジーが出てきただけでは場は変わらないのだけれども、それが何かと関係して何かが変化する。ここをとらえるのが非常に大きな課題だと思いますし、執筆者が、結構苦しんでいるところだと思います。

 成田 はい。しかし、そうであるがゆえに、年表という形式をとられたのだとも思います。本年表は、アウトプットの形式であるとともに、方法的な構えともなっているということです。つまり、今までは新聞は新聞、映画は映画、テレビはテレビと、縦割りで論じられてきました。縦割りだと、いくら「場」の構成―メディア間の関係を探ろうとしても難しい。それでは、いったんそういう縦割りというものを壊してしまえ、年表という形にしたらいろいろ読み取ることが可能であろうという戦略として提供された、と。

 土屋 方法としての年表として考えてもらえるのはすごく面白いし、そうであってほしいなと思いますね。ある人から言わせるとバラバラにメディアの事象が並んでいるだけと思われるかもしれないのですが、メディアの動きが、「あ、これは同じ年にあったのか」という、意外な取り合わせ、そういう場が構成されていたことを、同時代的に読み取ってもらうことは、大事なことだと思います。それはメディアの研究にとっても大事なことだと思います。
 私が勉強してきた新聞史だと、新聞社の中の通信部分のやり方が変わってきたと記述されるわけですが、それは一方では通信社のあり方と通じているわけですし、そのような連関がもっと具体的に見えてくるといいなと思っているのです。

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 戦争と大衆化

 成田 日本近現代史を学ぶ立場から、本年表を見て思うのは、メディア史にはいくつかの橋頭堡があり、その一つが戦争だということです。近代の戦争は、人びとを「国民化」していく出来事ですが、このときメディアが大きな働きをしており、メディア史の大きな焦点でしょう。
 いまひとつの橋頭保がイベントや事件、さきの国民化に対応した言い方をすると「大衆化」となります。これらがメディア史の二つの拠点になるでしょう。
 こうした目線で本年表を見ると、前者の戦争に関して、例えば西南戦争のところの記述など実に面白い。「一八七七年二月一五日、西南戦争開始」と記されたあと、三月からの新聞で戦争報道のさまざまな様相が記述されます。仮名垣魯文や福地桜痴といった新聞人の名前とともに、上野彦馬が従軍したことが記され、メディアの参加がうかがわれます。
 さらに松林伯圓や三遊亭圓朝らも西南戦争を論じることを考え合わせれば、新聞による戦争の報道にとどまらず、講談などの物語を通じての西南戦争があり、戦争に関する多様な語りに気が付きます。いや、正確に言い直すと、これまでは、物語の形式によって認知していった戦争を、魯文たちが新聞を通じ、言わば「事実」を報道しようとするようになる動きがうかがえます。

 土屋 「事実」についてですが、伝統的に言うと、江戸時代からの戦争の語られ方というのは実録ものに代表されるものですよね。いってみれば講談の語りで、それは事実なのかということはあまり問題ではなく、語られてきた。そして、私たちもまた同様に繰り返して語るという、そういう語りの芸で、聴衆と語り手がお互いに一緒の場をつくって盛り上げていくというものでした。しかも、講談本の多くは印刷されないで、手書き本で流通している。そういう意味では、一時代前の禁制の下でのメディアでした。
 それが今度は新聞という活字メディアになり、そして戦争も電信などのニュースを使って伝えられるようになり、「事実」と称したルポルタージュ的なものが語られていく。さらに、それがまた錦絵に描かれたりして本当らしく伝えられる。でも、本当かどうかは実はカッコ付きなので、語りと事実が混在して民衆に流布する様子が、とても面白い。

 成田 そうですね。だから、メディアが介在することによって、物語としての戦争を求める心性(マンタリテ)から、戦争の「事実」を求める心性に、人びとのなかでの変化がみられるということになるでしょう。

 土屋 そう。そして、そういうことを知ることが正しい、求めるべきだという方向に新聞も雑誌もなっていく。たとえば、西南戦争の前に、仮名垣魯文が江藤新平の佐賀の乱について、『佐賀電信録』を著しています。この本はそうした過渡期を示していて、とても興味深い。これを魯文が書いた理由は、新聞には事件の報道がパラパラと出されたが、電信による速報やや手紙による伝聞などが入り交じり、伝達による時間差もあって、話が前後したり、断片的だったりして、普通の読者には何がどうなっているのか、事件の流れがわからなかった。そこで、それをわかりやすく時系列に整理した話にまとめて挿し絵も入れたのが、この『佐賀電信録』で一八七四年に出ています。当時魯文は戯作者から『横浜毎日新聞』の記者に転身してまもなくの頃で、「神奈垣魯文」の筆名を用いています。これが実録ものによる戦争の語りから報道の記事による戦争の語りへの移行の始まりでしょう。   
 新聞の記事を、実録ではないのだけれども、新しい物語、新しいスタイルの戦争を語る話にしてみようと彼は試みた。それが戦争を人びとにどういう形で伝えるかという、近代的な新形式の最初だったと思います。
 明治の初めは、新聞や雑誌でいま私たちが読んでいるようなニュースというものを受け入れる素地がなかった。ではニュースをどうやって語って伝えるか、そこにはある種芸能的な手探りがあったのではないかと思います。そういう面がこの年表から読み取れるといいと思います。

成田龍一先生 成田 はい。そして、それは一人、魯文の話というよりも、魯文があらたな語りをおこなうことにより、潜在的に人びとが持っていた関心の変化を促し、方向づけをしていくということですね。

 土屋 そうですね。戦争が大衆化と国民化の一つの大きなメディアの拠点だというのは、確かにそのとおりだと思うのです。ただ、大衆化や国民化そのものを年表に書き留めるというのはなかなか難しい。歴史学の議論としては、それは実際に十分論じられてきていますし、重要な論点だと思うのですが、これは年表の中ではなかなか難しい。つまり、国民化とか大衆化という過程が、見えるとすればどうやって見せるか、どうやって記述するかということが大問題です。
 その点では、戦争というのはメディア史から見てもテクノロジーの変化だと私は思っているのです。例えばオリンピックがテレビ技術の発展のときに一段階上がる一つのステップだと言われていますが、戦争もそういう部分がある。電信や写真はその代表として挙げられますが、そういうものがステップアップして新しい技術が投入されるのはだいたい戦争のときですね。
 それまでは試してみるだけだった技術を、戦争になって実際に使うということが行われてきた。飛行機などのテクノロジーもそうですが、私はむしろそういう側面の方が年表では追いやすいのかなと思っています。その辺はいかかでしょうか。

 メディア史の方法

 成田 戦争によるテクノロジーの発達は、コンピューターはその典型ですし、さらに現在のインターネットも戦争の中で開発されており、ご指摘のとおりだと思います。そして、「国民化」や「大衆化」の過程も、年表によって筋道が浮き上がってくることもその通りだと思います。
 メデイア史といったとき、戦争のような非日常的な事態と出来事とともに、日常に根差す出来事をあわせて扱いますが、戦争もその過程においては日常化し、事件やイベントもその瞬間には非日常の出来事となります。そして、「国民化」「大衆化」は、これらの双方が複雑に絡み合っての動きとなるでしょう。
 たとえば、「大衆化」といったとき、一九二〇年代に多様な動きが一挙に出てきます。広告がその典型ですが、新聞や雑誌の広告欄にとどまらず、ビラやポスターとしても出され、大量の広告がメディアとしての機能を果たします。横断的に広告が登場することが、年表での記述からうかがえます。
 このとき、これらの出来事の出来の意味への問いが誘発され、その問いが「大衆化」という仮説を促すという流れが続くはずです。そういう機能をこの年表は持っていると思いますし、そういう問いの誘発を想念しながら、項目選定がなされたと推察します。

 土屋 この年表は分野別にそれぞれ分担して作成されました。放送関係は立教大学の井川充雄先生、通信関係は大妻女子大学の里見脩先生、映画関係が早稲田大学の谷川建司先生、広告関係は関西学院大学の難波功士先生、慶應大学の山腰修三先生に最新のコンピューターなどのテクノロジー関係、立教大学の吉田則昭先生には雑誌・出版関係、写真関係を石井仁志さんというふうな形で執筆して頂きました。
 そのときに、どのように項目を取るのかという話が、当然議論になりました。そこでどうしようかと考えたのですが、一律の定義をするのはとても難しいので、とにかく各分野で、これはどうしても採録しておかなければいけないと判断したものは採録してくださいとお願いしました。

 成田 メディアに関し、今までの歴史学では、エピソードの集積のように扱ってきました。それをエピソードではなく、歴史を考えるうえでの重要な柱にしようとする試みの流れのなかに本書の営みがあるでしょう。土屋さんの議論に関わって、二つのことを想起します。一つは、メディア史の研究史に関わる論点、もう一つはメディア史が歴史を考えていくうえでの方法的な提起であるということです。
 まず、前者ですが、メディア史の研究史を考えるとき、新聞の歴史、放送の歴史、通信の歴史、映画の歴史と、つまり、現在私たちが知覚しているメディア―しかもマス・メディアの起源を遡っていく形で研究史が提供されていました。たとえば、新聞は一九三〇年代にその歴史が語られ、新聞史研究が開始されます。出版研究も同様に、出版が重要だと認識された時期―ひとつの画期としての一九五〇年代ころから、出版史が提供されます。これに社史が加わりますから、メディアごとの歴史の集成としてメディア史が提供されていました。
 ある時期にそのメディアの正統性、メディアのアイデンティティを確かめるために、ジャンルごとにつくられていた歴史が、その出発点に位置していたということです。
 これに対し、本年表は、そうしたアイデンティティとしてのメディア史を、二〇一七年の視座において、シャッフルし直すという作業がなされているだろうと思います。
 すなわち、新聞というものを自明のものにしたメディアの歴史を探るのではなく、また放送に関しても起源をさかのぼるという発想ではない。そうではなく、現在、新聞がどのようなメディアとして考えられるがゆえに重要であるのか、その項目を歴史のなかから掬い上げるという営みですね。放送が現在どのような位置にあるのか、そのことが考えられるような事跡の探究ということで項目を拾うということ。すなわち、メディア史の研究史を踏まえた上で、現時点でもう一度それを考え直そうという方針だろうと推察します。

 土屋 それはたぶん編集に関わった皆さんが共通して持っていたものだと思います。なぜかというと、現在のメディアの状況がそういう思考を促しているからです。今は「じゃあ、新聞って何?」「新聞は紙に印刷されているもの?」というクエスチョンが実際に付いているわけですよね。
 そうなると電子版というものは新聞ではないのか。では、新聞社とは何か。こういう問いが現実にあり、それは研究者の皆さんが共通に意識しているところで、具体的には説明していませんが、恐らく共通認識としてあった。そういうことを振り返る意味もあり、年表の中では、新聞は新聞のアイデンティティを確認するというようなものではなく、もう一回、現在のメディアを考え直すための年表という意味が非常に大きかったと思います。
 新聞史研究のそもそもから言えば、一九二〇年代に企業として発展した新聞社が、それまでの新聞の歴史を振り返るというところから始まっています。一九二二年(大正十一)に小野秀雄が著した『日本新聞発達史』は、朝日新聞社に対抗して大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が合併してから十周年の時に、同新聞社から発行されている。また、同新聞社から一九二六年(大正十五)に刊行された『十大先覚記者伝』は、初期の新聞のジャーナリストたちを検証するということを、新聞事業の先達を追悼する行事の一環として始めました。
 この二つの著書の間に関東大震災があり、古い新聞雑誌や資料が失われたため、宮武外骨や明治文化研究会の人々が収集や記録を始め、そこから出版史なども振り返られることになる。その延長上に一九三〇年から刊行された『綜合ヂャーナリズム講座』が成立した。これが戦前におけるメディア史研究の始まりと言っていいと思います。
 そこで、戦後の研究がどこから始まったのかという問題が実はあるわけです。戦前の研究がどう引き継がれたのかについては私もよく確認していませんが、戦後は「マスコミュニケーション研究」というものが出てきます。つまり、南博をはじめとする社会心理学が入ってきて、その中でいわゆる文化研究として日本の新聞・雑誌、メディアというものを取り上げるようになった。
 それも活字メディアだけを取り上げるのではなく、その周辺のいろいろな語り、ビラ、替え歌みたいなものも含め、社会心理を研究するという中に、現在言われるメディア史研究の萌芽が包まれていて、実際に私が学んだメディア史研究の先駆者である山本武利先生、有山輝雄先生、竹山昭子先生などの世代は、全部南博の影響を受けていると言えるかと思います。
 ですから、新聞社が自らの歴史を検証する一方で、米国を起源とする社会心理学の研究がメディアの研究を見直す契機となり、特に社会心理、日本人の社会的な心理を誰が、どういうふうにつくってきたのかという興味がメディアに向いたということがあると思います。

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 成田 小野秀雄が新聞史の研究を開始されたのは、ちょうど新聞自体が大きな転換をする時期ですね。各地域にあった小さな新聞社が、大きな資本に統合され、大資本による全国紙が登場してくるという転換期。このとき『日本新聞発達史』という大著を書きますが、新聞をめぐる状況の変化に対する、小野なりの敏感な対応でしょう。
 メディア史は、そうしたマテリアルなジャンル、テクノロジーによる新メディアの誕生、それらを実践する企業を念頭に置きながら考えられてきます。これは、戦前にその原形を持っているといえます。
 戦後は、ご指摘のように、新たにマスコミュニケーション論として、南博たちの社会心理学が重要な役割を果たしています。コミュニケーション論として、メディアというものを媒介にしながら人と人、あるいは人と社会の関係が、どのように再編成され、変化していくかという研究でした。
 南たちの議論は大きな影響力をもち、歴史的な分析として、私などにとっても『大正文化』(一九六五年)は必読本でした。マテリアルというよりは、むしろファッション、流行や、うわさなど、言ってみれば目に見えにくいもの、あるいは移ろいゆくものへの関心が強くうかがわれました。また、大きな動向を押さえながら個人の趣向に入り込み、意識的なものとともに無意識の領域をも扱おうとするように感じました。メディアの領域と役割を一挙に広げていくような仕事だったと思います。
 しかし、南たちの仕事は、当初、どのような形で受け取られていたかというと、世相史・流行史・風俗史としてでした。講座日本風俗史編集部編『講座 日本風俗史』(雄山閣出版)という講座のなかで、第一一巻「昭和時代の風俗」(一九五九年)が「昭和」の風俗を扱うのですが、南博さんが編者となり、巻頭に「昭和時代の風俗」を執筆しています。新聞や雑誌などを、マテリアルの局面ではなく、その効果とでもいうべき側面から扱い、なかなか可視化できなかった領域を可視化し、メディア史に接続したということができるように思います。

 土屋 そういう言い方もできると思います。あともう一つ、現代のメディア史という考え方をするときに私自身が影響を受けているのは社会史です。アナール学派に直接影響を受けたというよりは、それに影響を受けた日本の歴史家たち、例えば良知力とか、阿部謹也とか、安丸良夫の民衆史とか、民衆がどのように歴史に参与し、歴史をつくってきたかという観点の歴史的な叙述というものが、もう一つあると思っています。
 従来の歴史学だと、まずは王朝の歴史、つまり、権力者の歴史、その正統史を叙述するというのが大目的でしょう。しかし、そういうものだけが歴史学なのかというと、これに対するアンチテーゼという意味合いが民衆史とか社会史にはあった。

 成田 さきの第二の論点にかかわりますが、歴史学の転換とメディア史との関係は、興味深い主題ですね。歴史学が私的領域へと対象を拡大するときに、文学研究とともにメディア史の影響も大きかった、とあらためて思います。メディア史からは、同時に認識面でも刺激を受けているでしょう。たとえば、世論をめぐり、あらかじめ人びとの意見があるのではなく、メディアによってつくられるとの議論。しかし、対抗的に、調査をすれば人びとの意思や方向はわかるという議論があります。実在/解釈をめぐる議論は、歴史学でも焦点となりつつあります。ようやく、ですが(笑)。
 さらに、佐藤卓巳さんが提起する、「世論」と「輿論」―ポピュラーセンチメンツとパブリックオピニオンとを分節し考察する議論もまた示唆的です。歴史学における、集合的記憶の重要性の喚起とも接点を有する議論となっています。

 土屋 メディア史は、結局、今までの歴史研究とか社会心理学、社会史でもいいのですが、そこではちょっと飽き足らないという人たちがやっているように思います。具体的に言うと、日本近代史研究出身の人と、私のように社会学とか社会心理学の分野の人と、あとはマテリアルなもの、つまり雑誌とか新聞とかの古い物が好きでコレクションをしている人と、三系統ぐらいある。この寄合がなかなか面白いわけです。
 つまり、純粋にアカデミックかというと、そうでもない。歴史系の人、社会学系の人はそれぞれ学問的エリアがあるのですが、コレクターの系列の人は全く個人的な関心で面白いからいろいろな現物を集めている。たとえば、日本新聞博物館に寄贈された、明治以降の新聞雑誌の膨大なコレクションである羽島知之コレクションや、戦中及び占領期の雑誌を集めた福島鋳郎コレクションは、何かの学問とは関係なく個人の思い入れで集められたものですが、そういう人たちの持っている史料が私たちにとってはたいへん役に立っているわけです。民間史家というか、そういう部分をくみ上げているところがメディア史の研究にはあると思います。

 成田 メディア史研究にはアカデミズムと民間・在野の両方の人がおり、実際にそうした共同作業がなされているということですね。マスメディアの現場の人も加えるとメデイア史にかかわる方々の多面的な構成がうかがえます。資史料に関わって、その構成が有効に働いていることは興味深いことです。
 このことは、いくらか飛躍しながらいうと、一見対抗的なものがともに扱われている、ということです。先にも話題としましたが、メディア史は「公」と「私」、「日常」と「非日常」の双方を対象とし、双方を分析する視点をもちます。対立的なものをともに扱い、組み込んでおり、これがメディア史の領域となっていると思います。今までやってきた事柄であるでしょうし、この年表からも、そうした事柄が多々うかがえます。
 これは、歴史学が志向することと重なっています。今までの歴史学が公的な政治を扱い、その反省から民衆の日常に着目するようになったのですが、振り子を片方に振り切ってしまったときには、どうにも不十分です。このように考えると、メディア史は、歴史学のいま考えている課題を、より明示的に実践しているとさえいえるでしょう。

 土屋 そう言ってもらえるとこそばゆい感じになります(笑)。

 成田 いくらか、隣りの芝生の青さの強調になっているでしょうか(笑)。ただ、方法としてのメディア史の可能性、そして、その守備範囲がこの年表からうかがえます。

 本書の特徴

 土屋 たいへんお褒めにあずかったような気がしていますが、何かご要望とか、ここは疑問に思うというところがあれば、ぜひお聞きしたいと思います。

 成田 歴史学の課題との重なりという観点からすると、例えばペリーの記述など、連想を誘います。一八五三年にペリーがやってきたことで日本の近代が始まったということが通説になっています。その出来事を、この年表でどう記しているかと言うと、ペリーが二度目に日本にやってきたとき(一八五四年)、「各寄港地の琉球、下田、横浜、函館などをダゲレオタイプで撮影した」とある。これなどはハッと思わせる記述です。
 なにを意図して、ペリーが写真撮影をおこなったか、と想像力が広がります。幕府と折衝をするという「公」の任務をもつペリーの行為は、当然、記録写真となりますが、何を写しただろうか。ペリーの持つ役割とその関心。そこへ私たちの想像力を膨らませていく記述になっています。
 あるいは、敗戦の日の記述も同様です。一九四五年八月一五日に玉音放送があり、アナウンサーによる解説などが続き、鈴木貫太郎・首相がその後、戦争終結の告知をします。年表にはさらに、「一週間の全国の映画興行停止」という一行が付け加えられている。人びとがニュース映画によって情報を視覚化し具体化していたことを考え合わせれば、大きな出来事です。また、数少ない娯楽も停止されてしまったことが、記されています。
 玉音放送のもたらした効果は、議論がなされています。新聞の配達を玉音放送後になるように遅らせ、敗戦を活字ではなく、声で知らせ、身体的なもの、オーラルなものを重視した大日本帝国の作為が指摘されています。となると、ラジオとともに、さんざんに利用されてきた映画を利用することも考えたでしょう。その映画に関し、「申し合わせで」映画興行が停止されたと記されたことが目を引きました。

 土屋 ただ、今のところに関して言うと、新しいフィルムが間に合わなかったのではないかと思います。つまり、戦争が終わったけれども、興行のフィルムは「これから頑張りましょう」という、戦争を推奨する映画だったと思うんですよ。土屋礼子先生

 成田 はい。たしかに、劇映画はそうでしょう。簡単には、敗戦後の事態にもとづいた映画を提供することはできません。しかし、今で言うニュース映画は、可能でしょう。映画館が興行を停止するということは、ニュース映画も流れないということですね。

 土屋 そうです。

 成田 ニュース映画は、重要なプロパガンダです。継続して支配を行っている大日本帝国が、それを利用しないという手はないと思うのですね。しかし、その手は使わない。むろん土屋さんがいわれるように、物理的な制約が大きいでしょうが、ある意図も働いていたような……。

 土屋 空白になってしまったわけですよね。

 SNS時代を生きる私たち

 ――ここで、現在の問題にふれます。本書には付録の表(戦後の媒体別広告費の推移)が付いています。これを見ていくとそれぞれのメディアの影響力が見えてくると思うのです。一九六〇~七〇年にテレビが勃興してくる時代は、メディアが新聞からテレビに取って代わられるのですが、二〇〇七年に雑誌の広告費をインターネットが抜きます。
 そこを考えていくと、現在私たちが目の前にしているSNSの発達というのは、今までのメディアの発展と比べてどれくらい大きい変革と考えていいのでしょうか。

 成田 先ほど新しいテクノロジーの登場のもたらす衝撃を強調しましたが、ただそれが出た瞬間に、今までの関係性―コミュニケーションのやり方が変わり、変化が一挙に進むかというと、そうではないですね。新しいテクノロジーを旧来の心性と作法でだんだんと馴致し、新しいメディアとメディア環境に慣れていくのでしょう。移行の期間があると思います。

 土屋 社会としてはそうですよね。

 成田 個人の次元では多様ですけれどね。つまり、SNSは、誰もが発信をして、それをみんなが一挙に共有するといいますが、改めて考えると、従来もそうしたことはありました。自分の意見を提出し、共有したいという人は沢山いました。たとえば、新聞に投書し、雑誌に投稿し社会に伝達することは広範に行われてきた。
 しかし、それが新しいテクノロジーのもと、厖大に広がっていったというのがSNSということでしょう。なるほど、量的な拡大は以前とは比較になりません。また、伝達の仕方も多様に、複雑になっています。しかし、根底にある自らの発信の欲求を出発点とした作法は、一挙に新しくなったのではないと思います。
 また、SNSなどで、情報が不特定多数に共有され社会化される局面はあらたな事態のように見えます。今まで見知っていた範囲で共有されていた情報が、文脈を離れて、まったく異なった社会に投げ出され、これまでとは違った文脈で受けとめられ解釈されるようになります。文脈の共有、共通の文脈を持たずに切りはなされ、情報が独り歩きします。
 しかし、こうした事態も、近代当初の活字がもたらしたことがらではありました。オーラルなものが活字になるとき、遠く離れた場所で、違った文脈のもとで人がそれに接していきました。メディアの推移の経験は、インターネットやSNSに対しても有効でしょう。

 土屋 これからはどうやってパブリック(公共性)を形成するか、これがメディアによって変容する部分が、非常に大きいのではないかと思います。新聞や雑誌がつくってきたパブリックのつくり方とSNSがつくっていくパブリックのつくり方は、やはり少し違う。影響のスピードも違うし、範囲も違う。SNSも結局階層化している部分がありますし。
 だから、そういうことがどんどん明らかになっていくと、出版や放送とは違うけれども、似たようなパブリックのつくり方が出てくるのではないかと私は思っています。

 成田 ただ、プライベートなものとパブリックなもの、つまり公共圏と親密圏の生成と関係性、その持つ位相の測定などは、メディア史研究の重要な課題でした。その課題が、あらためてSNSやインターネットなどの新しいテクノロジー、ニューメディアによって突きつけられているということでしょう。新たなメディアが登場することによって、今までの議論が帳消しになるのではなく、むしろこれまでの議論が試されてきているということだろうと思います。

 土屋 実際にフェイスブックに対する規制が各国で議論されていますが、年表にあるような過去における個々のメディアの議論が、新しい未来を考える上でも参照項になるでしょう。

 ――本日はありがとうございました。

(2017年12月19日)

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